群馬に帰る45の方法 |
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群馬に帰る45の方法
[NEW] すでに6年間続いている、毎週末の中央研究所-第3研究所間通勤。 金曜の夜 中央研究所に戻るには、その経路上のどこかでグンマに入るわけですが、 はて、グンマに入る場所、つまり通勤に使える県境通過点って何か所あるんだろう。 毎週の往復ももう6年続いてさすがに退屈になったから、全箇所制覇でもしてみるか。 |
甘楽町の峠 |
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甘楽町の峠
[NEW] 小幡の城下町跡やちいじがきなどの豊かな歴史を持つ町、甘楽。 町の南西部は雄川に沿った山あい。 自動車交通の時代になるまで、山あいの集落間の交通は峠越えによるものでした。 さらには日野村(現 藤岡市)や額部村 (現 富岡市)や下仁田町などとの交通のために、多くの峠がありました。 地図に描いてみると、甘楽町にはたくさんの峠があったことがわかります。 [甘楽町峠マップへ] [おまけ] |
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根藤峠
根藤峠は甘楽町史には取り上げられていませんし、甘楽町1万分の1地形図にも記載がありません。 地元の人に訊いても、首をかしげるだけ。 いったいどこなんだろう。 [このページを読む] |
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入山峠
入山集落から宮城に抜ける峠道を初めて越えたとき、古い地図と文献の記述を参照して、 ここが入山峠だと考えました。 それから1年後、甘楽町1万図に入山峠が記載されていることに気づきました。 その場所は自分で推定していたところではなく、 明治40年の地形図ではすでに道が途絶えていたところだったのです。 林道車道の峠は新入山峠と仮称することにして、 古い真・入山峠にも行くことにしました。 [このページを読む] |
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那須峠 那須峠は甘楽町の南西部、秋畑の峠。 ここはむかし秋畑村でした。 那須峠は秋畑村の那須集落の人々が物資を運んだり買い物に行ったりするときに通った重要な峠。 なのに今ではその場所をはっきり示した地図や文献類が見当たりません。 やむなく文献の中の短い記述から横見峠と那須峠の場所を推測したのですが、 どうやら間違っているようです。さて? [このページを読む] |
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横見峠
那須の人々は横見峠を越え、額部村の宮城に出て、三本杉の峠を越え、下仁田に買い物に行っていました。 現在ではそれを示した書物も地図もない横見峠。 通る人も絶えて久しいこの峠でその昔、買い物から帰ろうとした人が思いかけぬ雪に会って亡くなってしまうという痛ましい出来事もありました。 それを悔やんだ句が掘られた石碑がこの峠に残っているそうなのですが、最初に峠を訪れたときは見つけることができませんでした。 はたして石碑はどこに? [このページを読む] |
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峰峠
織田氏ゆかりの地である小幡を擁する甘楽町には、戦国時代の言い伝えと史跡が多くあります。 国峰の山城跡と、峯の山城跡はそういったものの例。 いずれも城跡といってもかすかに痕跡をとどめる程度であり、 想像力豊かな歴史考古学者あるいはマニアでもない限り目を引くものはありません。 山奥にあった峯城跡などは、はたして年間何人がここを訪れるのだろうかと思うほど。 [このページを読む] |
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大日峠
明治末期に難工事の末に雄川沿いの道が開通するまで、 秋畑の人が富岡方面に出るには榎峠を越えて裏根集落に出て、さらに大日峠を越えて国峰に出ました。 秋畑と、特に裏根の人々に深くかかわっていたこの峠には、大日如来が祀られています。 それゆえの、大日峠という呼び名。 雄川沿いの道が開通して県道昇格して榎峠が使われなくなってしまっても、 おそらく大日峠は裏根の人々によってしばらくは利用されたのでしょう。 今では交通ルートとしての利用は完全になくなってしまった大日峠ですが、 峠の大日堂はいまでも土地の人によって維持されています。 [このページを読む] |
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榎峠
明治末期まで、雄川沿いの道は通行が困難な場所が多く、特に轟と戦場の間は難所とされていました。 川沿いの日の当たる側は岩場だったので道は日影側につけざるを得ず、冬場は道は凍りつき、 荷をつけた馬が足を滑らせ川に転落し死亡するなど、 事故などもしばしば起きていたようです。 そのため秋畑の人々は戦場から枇杷ノ沢に出る雄川沿いルートではなく、 山越えのルートをとって富岡市街方面に出ることも多かったようです。 秋畑の中心部である梅之木平から北の裏根に出るときに越える峠、それが榎峠です。 [このページを読む] |
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炮烙峠
峠越えログを見ると、炮烙峠は「1984年12月02日にXT400で到達、たぶんSP370でも来ている」と記録されているのですが、そのときの記憶がまったくありません。 仮に当時峠までたどり着いたのだとしても、奈良山側には降りられなかったはずです。 はたして本当に私は、1982年にSP370で、また1984年にXT400で炮烙峠に来ていたのでしょうか? [このページを読む] |
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奈良山峠
須田 茂さんの「群馬の峠」では奈良山峠は「焙烙峠と同じ」・・・。 同一の峠が複数の名前を持っている場合は珍しくありませんし、 時代とともに呼び名が変る場合も少なくはありません。 でも奈良山峠の場合はちょっと違うような、そんな気がするのです。 [このページを読む] |
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カラカラ峠 こりゃあ難しい、ヒントが少ない上に記述が不正確ときた。 こんなことに気を揉んでいるようなヒマがあるのかオレに? [このページを読む] |
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二本岐峠 / 水越峠 / 中峠 / 小柏峠
上日野を長きに亘って支配した小柏氏が小幡や宝積寺に行くのに使った二本岐峠と水越峠。 でもいまでは地元の人にも忘れ去られようとしています。 二本岐峠から白倉神社に下る道は…文字通り完全消滅していました。 [このページを読む] |
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牛返峠
地図にも書かれておらず記載された文献もほとんどない牛返峠。 唯一この場所を示している甘楽町1万分の1図を頼りにその峠に行ってみましたが、 あれえ? 文献によればこの峠には山の神さまがいらっしゃるはずなのに。 本当にここが牛返峠だったのだろうか? [このページを読む] |
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大根峠
大根峠について書かれているのは、関口 進さんの「甘楽町の地名」と、甘楽町発行の1万分の1地形図のみ。 でも甘楽町1万図の峠の記載の正確さは他の峠の例からして疑ってかかるべき。 地図に示されている位置が正しいのだとすると大根峠は峠交通として使われたとは思いにくく、 むしろその東にある鞍部のほうが峠として成立する条件を満たしているような。 さて、真実は? [このページを読む] |
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亀穴峠と鳥屋峠
西上州の峠の中でも亀穴峠は私にとってちょっと特殊。 徒歩でないと行けない古い峠、という意味ではほかのいくつもの峠と大差ないのですが、 この「亀穴峠」という文字を見るたび一瞬、 どう言ったらいいでしょう、なんとも言葉では書き表せない、 不思議な心象が広がるのです。 そして亀穴峠は以来35年間、その不思議な心象とともに、私のログブックのなかで「未到達」ステータスのままでした。 歩けば行けるとわかっていて、 だけれども実際にそこに立って実際の峠を目の当りにしたらあの不思議な心象は消えてしまうかもしれないということに対するためらいがあったからなのかもしれません。 [このページを読む] |
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西上州の峠 |
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不入戸峠とホーロク峠
赤久縄山と西御荷鉾山の間を越える塩沢峠は、その昔大峠と呼ばれていました。 その昔、甘楽秋畑を出て小峠に登り、会場で一休みした後に大峠を越え、そこから山中領万場に降りるのは、 すくなくとも半日を要したのだろうと思います。 長い山道は主要な街道筋に比べれば整備も進んではおらず、 よって懐具合に余裕のある人は、初めてここを通ろうとする時は道案内人を雇ったのかもしれません。 その昔小十郎という人が客を案内して大峠に連れていくときに、その手前の峠でここが大峠だとごまかした、 という言い伝えが藤岡市史に記載されています。 [このページを読む] |
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ブラリ峠 ブラリ峠とはこれまた奇妙な名前だ。 でもいったいどこなんだろう? ここだろうと推測して現地に行ってみたものの、 その後さらに調べるとどうやらそこはブラリ峠ではないらしい・・・。 [このページを読む] |
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これい峠
[UPDATED] 須田 茂さんの「群馬の峠」を読むまで、これい峠という名を聞いたことはありませんでした。 同書で上野村中ノ沢と南相木村三川を結ぶとされているこれい峠の場所を特定しようと古い地図を調べてみたら、 どうやらこれい峠は同書の記述とは違って上野村白井と北相木村白岩を結ぶ峠道であり、 おそらくは栂峠とおなじ峠のようなのです。 [このページを読む] Korei Toge Pass always appeared on the Gunma prefecture map of Edo period and early Meiji period (until year 1880) but none in later maps, and there is almost no information on the Net -- this is a pass totally forgotten. This page attempts to locate the ancient Korei Toge Pass by referring historic maps, and reachs to a hypothesis: "Korei Toge and Tsuga Toge are the same pass". Tsuga Toge Pass is shown in the Taisho period and later including moderen maps. This is a very challenging hypothesis because Tsuga Toge's location is different from the widely accepted location of Korei Pass, which is described in a very famous book "Passes of Gunma" by an well regarded researcher/author Mr. Shigeru Suda. |
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蟻ヶ峠 これい峠の研究中、それまでこれい峠だと言われることがあった峠は実は蟻ヶ峠なのではないかと思われました。 しかし地図をさらに読むとそれも間違っているらしいことに気がつきました。 はたして蟻ヶ峠とはどこ? [このページを読む] |
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存在確認できない峠 その存在を確信することすら不可能な峠の夢物語。 [このページを読む] [注] このページは2015年04月01日に作成されました。 |