根藤峠は甘楽町史には取り上げられていませんし、甘楽町1万分の1地形図にも記載がありません。
地元の人に訊いても、首をかしげるだけ。
いったいどこなんだろう。 やはりまず最初に信頼すべきなのはなんといっても須田さんの「群馬の峠」で、
須田 茂 群馬の峠 (2005年) 5C-07
根藤峠 ・・・・ 本峠の位置は藤田峠の南西500m、谷ノ口集落の西方の尾根上とみられる。 とのことで、地形図を見れば須田さんの推測した位置は確定できますが、 しかし根藤峠が実際どこであったのか、自分でもあらためて調べてみます。 須田 茂さんが「群馬の峠」に書かれておられるように、明治初期に編纂された郡村誌に根藤峠が記されています。
上野國郡村誌 巻9 上野国甘楽郡秋畑村
山 稲含山 高三百九拾丈、村ノ西方ニアリ、西方杖植山ニ対シ東南千駄萱・御荷鉾山ニ対シテ郡ノ中央ニ兀立ス、 西方栗山村ニ属シ南方日野村ニ属シ北方野上村ニ属ス、登路東麓那須ヨリ上ル長三十町ニシテ稲含前宮ノ祠ニ達ス、 山脈東南堅沼峠・カラカラ峠アリ、東北那須山 根藤峠 アリ、脈中多ク萱茅ヲ生ス 道路 里道 里道一等、巾九尺、東方轟村ニ入リ西方稲含登路ニ合ス、村ノ中央ヲ過ルコト二里廿五町三拾間、右ニ入ルモノヲ国峰村道トス、 大日峠ヲ踰テ国峰村ニ通ス、長十五町三拾間、字梅木平ヨリ右ニ入ルモノ二条、南後箇村・岩染村・野上村道トス、 城山峠ニ出ルモノハ南後箇村ニ通シ、字赤屋ヲ経入山ヲ過テ右ニ折ルヽモノハ藤田峠ヲ踰シテ岩染村ニ通シ、 入山ヨリ左ニ折ルヽモノハ、 根藤峠 ヲ踰シテ野上村ニ達ス 根藤峠は、甘楽町秋畑の入山から野上村・・・現 富岡市野上 に至る峠ということです。 が・・・ 明治40年の五万図を見ると、入山から野上に抜ける道筋は2本描かれています。 さあてどっちのことをいうんだろう。 「甘楽町之地名」には次の記載。
甘楽町之地名 甘楽町地名調査会 1999年 p039 秋畑地区 其ノ三 (赤谷平、赤谷、桃瀬、谷ノ口、入山)の地名
根藤(ネフジ) 別項『バヤネリ』の沢から分かれて左手に入る道がある。 この道を登り詰めた所が『根藤峠』である。 この峠は今の富岡市野上から、下仁田方面に行く時に利用されたが、今は全く通る人はいない。 バヤネイリ 地元ではバヤネリとも訛って言うが『番屋入』と言う。 谷ノ口から藤田峠にむかって登って行く途中の沢名でもある。この地が要害の地であったことが窺える地名である。 「この峠は今の富岡市野上 から、 下仁田方面に行く時に利用されたが、」 の書き方は誤解を招きますね。 「この峠は (谷ノ口から出発して) 今の富岡市野上 を通り 下仁田方面に行くときに利用されたが、」 の意味です。 格助詞の「から」は、"1:動作・作用の起点を表す" の意味と、"2:経由する場所を表す" の意味、そのほかの意味・・・を持ちます。 元の文では「から」が1:の意味なのか2:の意味なのか文脈から確実な判断ができません。 1: のほうが2:よりも使用頻度が高いので、読み手はデフォルトで「起点を表す」のだとして読み進めてしまいます。 つまり読み手の解釈が書き手と異なる可能性が高いのです。 こんなときは読み手が誤解釈しないような別の書き方に置き換えなくてはなりませんが・・・ プロのレビューを受けていない地誌の刊行では、こういった誤解を招く書き方が残ってしまうのはやはり避けられないでしょうね。 ともかくも「甘楽町之地名」では、根藤峠は谷ノ口から野上に出る峠だ、とされています。 つまり2本の道筋のうち東側が根藤峠、ということ。 でも、あれ、変ですね。 明治40年の五万図には、谷ノ口からバヤネリに入って峠を越える道すじは書かれていませんが。 書かれているのは、谷ノ口からいったん藤田峠を越えてからさらに山に登っていくルートですよ? 「甘楽町之地名」のバヤネリの記述はビビッドで、記憶違いの可能性はないように思えます。 すると地図が不正確なのかな? もう一冊。
「甘楽野今昔物語(かんらのむかしがたり)」 深沢 武 著 あさお社 刊 (1985年) 「甘楽町の峠路」
入山峠と那須峠、矢ノ口を更に赤谷川に沿ってのぼれば、二つ石にでる。二つ石というのは、雌雄一対の夫婦岩のことである。 一の宮の貫前神社から額部を通り、藤田峠、那須峠をこえ、稲含神社に参拝する道程の中間の目印であったともいう。 ・・・・・ 二つ石より、更に山路をたどれば、入山の部落である。ここから峠路をこえて、額部の宮城にでる。 富岡、下仁田方面との往来ができた。 こちらは随筆であり紀行文であって研究論文ではありませんから、 やれ表現が不正確だの誤解を招くだのと野暮なことは言いますまい。 しかし入山峠と呼ばれる峠と道筋の同定のためには記述がちょっと不足しています。 明治40年の五万図に示されている2本の筋道・・・藤田峠の南西稜線上にある2つの峠について、 そのどちらが入山峠なのか、確定的には書かれていません。 ただしその前の(上記には引用していませんが)文脈は、梅之木平を出て赤谷を通り矢の口(谷ノ口)を通り二つ石(二ツ石)を通って入山にたどり着き、 そこから峠を越えて宮城へ・・・という内容ですから、 2本の峠道のうち西側が入山峠だ、と読めます。 東側の峠を使うなら、入山はおろか二ツ石も行きすぎですから。 断定的に示された文書にはめぐり合えていないものの、 明治40年の五万図に示されている2本の峠道のうち東側にあり野上に至るのが根藤峠、西側にあって宮城に至るのが入山峠であると思われ、 よって須田 茂さんの見解にも従って、 四等三角点TR45438264801「藤田峠」(弾正山) の南南西170メートル、南側稜線鞍部の標高約592m地点が根藤峠である と結論付けておきましょう。
後日判明。 上記の「入山峠」は古来の入山峠ではなく、近世に開削された道でした。この峠は「新・入山峠」と仮称することとしました。
入山峠についてはこちら。
本ページ中の地図は新入山峠と真・入山峠を示すように修正してあります。 なお明治40年図をみると、根藤峠と(新)入山峠は705.2m峰の西側を巻く形で相互に通行可能になっています。 (新)入山から額部村のほうに行きたければ、(新)入山峠から根藤峠にトラバースするルートもとれたはずですし、 (新)入山峠→根藤峠→藤田峠経由で富岡村に行くこともできたでしょう。 |
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