現代の地図によれば、弘法の井戸から細いながら車道が延びてこの鞍部を掠め、
428mピークを取り巻くようにして南に下り、駒留をめざしているように読めます。
1 ので、
ポゴといのぶ〜で弘法の井戸を訪ねることにしました。 弘法の井戸は自然の湧水。 もう気温はずいぶん高くなっていてのども渇いたし、早く飲んでみたいな。あっ、ここだ。 プレハブ小屋の引き戸を開けると、中には・・・ ええっ? スイカが宙に浮いている!!! 良くみると、プレハブ小屋の内部はちょうどお風呂か小さいプールのようになっていて、張られた水にスイカが浮いていたのでした。 水はあまりに清らかに澄んでいて、水面は波ひとつなく鏡のようだったので、 スイカが宙に浮いているように見えたのです。 これはすごい、なにか異次元の世界に来たような錯覚。 ある意味水は溜め置きだから飛び上がるような冷たさではありませんでしたが、 それでもじゅうぶんに冷たく、飲んでみるとあまくてうまい!! おいしい水をいただけたことに感謝し、隣の賽銭箱に二人で小銭を入れ、家族の健康を祈ります。 弘法の井戸のあるここの集落は高井戸といいます。 天然の湧水があるがゆえに成立した山奥の集落、そして「高井戸」の名前もうなづけます。 弘法の井戸を出発して、いよいよフィールドワークとばかりに走り出すと、ブラリ峠への入り口はすぐに見つかりました。 非舗装路面はタイヤ跡も夏草に覆われ気味で、軽トラがせいぜい1日に1往復通るかどうかという感じです。 が、何箇所か木の枝が飛び出ている以外は2名乗車のいのぶ〜での走行に支障はなく、 傾斜はさほど急ではないのでクラッチ焼けの心配もありません。 2人とも半そでTシャツですし、転ばないようにゆっくり進んで行きます。 するとほどなく明らかな鞍部に到着しました。 ここがブラリ峠でしょう。 峠には軽トラが安心して転回できる広いスペースがあり、眺望は利かないものの明るい峠です。 ここでお弁当というのも楽しそうです。 良くみると、南西の方向に歩道が延びています。 これは迅速測図で破線で示されていた細い道に違いありません。 江戸時代には人が通っていた細い道。 それが今でも残っています。 今では生活のためにこの道を使う人もいないでしょうし、 こんな無名の峠を訪れる物好きハイカーがいるとも思えません。 ので、今では林の手入れをするのに使われる道なのでしょう。 ブラリ峠到達ということにして、さあ次のチャレンジは駒留まで降りられるかどうか。 峠から先はいっそう道が細くなるので不安に思いながらスタートすると、標高を落とし始めて428ピークを回り込んだところで道を完全にふさぐ倒木。 今日はポゴもいるし、そうまでして道の先行きを知る必要もないので、またのお楽しみということにして引き返しました。 2013-08-17 弘法の井戸とブラリ峠 |
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でもなあ、本当にあそこがブラリ峠だったのだろうか。
藤岡市史を読んでみると、
ブラリ峠
駒留から北の高井戸に出て、ブラリ峠を通って、多胡の大沢に抜ける道がある。 高井戸の裏山を越える山道にブラリ峠があり、恋ノ沢の上方を通り、吉井町大沢へ出て多胡から吉井へ行く。 (藤岡市史 民俗編 p645から抜粋) ううむ、この叙述では正確な位置は釈然としません。 この解説には2つの文がありますが、叙述内容は重複しています。 おそらく編集の際に2つの別の記述があり、それぞれをそのまま掲載したのでしょう。 藤岡市史には地名入りの精密な地図が付属あるいは掲載されているわけではないので、 この文章自体が新たな謎になっています。 1番目の文からは、ブラリ峠は駒留と高井戸の間ではなくて、高井戸と大沢の間にあると読めます。 2番目の文では、「裏山」がどこなのか高井戸の住民以外には理解できませんが (逆に言えばこれは住民からの聞き取りで得られた表現でしょう)、 おそらくは高井戸の北西部でしょう。 となるとやはり高井戸と大沢の間ということになり、 一度は「ここがブラリ峠だろう」とした場所はブラリ峠ではなさそうです。 |
ボウ坂
駒留から北の山へ登って、峯(みね)集落へ行き、山道を高井戸に抜ける旧道がある。 駒留から峯に上る坂道をボウ坂といい、駒留の小学校に通う子が通った。 (藤岡市史 民俗編 p647から抜粋) はたまた、これもレビューすれば指摘される記述ですね。 「駒留の小学校に通う子」は、どこに住んでいる子のことを言っているのでしょうか? 「高井戸に住む小学生が、駒留の小学校に行くときに通った」という意味だと解釈しておきましょう。 この記事に出てくる「峯集落」は、現代の地図では消えており、よそ者にはどこだかわかりません。 迅速測図では 北緯36度11分51.1秒 東経138度59分27.3秒 のあたりに人家らしいものが見えますから、ここが峯の集落だと仮定します。 とすれば、このボウ坂は、 迅速測図で歩道として示されている駒留と高井戸をつなぐ2つのルートで東よりのもの (実線で示されているルート) だと思われます。 であれば、先日ここがブラリ峠だとした地点はブラリ峠ではなく、ボウ坂の途中の最高地点ということになります。 もしここがブラリ峠と呼ばれていたのであれば、ボウ坂の記事の中にブラリ峠の言葉が出てくるでしょうから。 うーん、やはりここはブラリ峠じゃなさそうだな。 悔しいので、ここはボウ坂峠と独自仮称することにします。 ところでなんで「ボウ坂」っていうんだろう。 まだ小さな坊やが通るからボウ坂なのかな。 藤岡市立日野小学校の史料 を見ると、明治初期から駒留の円住寺に学校が設けられています。 高井戸から円住寺まで山道を片道1.8キロ。 ちいさな子供には大変なことだったでしょう。 |
ブラリ峠について言及された書物は他にはないのだろうかと思い図書館に足を運び、ようやく一冊…
小林 禎仁さん著の平成20年発行の自費出版本、「30年前のふるさと探訪記 吉井町の境界を歩く」を見つけました。
今から35年前に地元広報誌の記事として書かれた、吉井町の境界を歩いた紀行文です。
このなかのp76、「大沢越え ― 道しるべ寂し 今は通る人もなく」に大沢峠を越えた記事があります。 記事は昭和53年(1978年)3月。 大沢の集落に車を止めた小林さんは500メートルほど歩いて林道終点、そこから急坂を登って大沢峠に到達し、そこで高井戸方面と猪之田方面を示す道標を見ています。 この記事の中で氏は
牛伏のほぼ真南なのだが、その牛伏は見えない。
展望はきかないが耳が痛くなるほど静かな峠である。
名を「ぶらり峠」とも「恋の沢峠」ともいうと聞いたが、いつごろだれが開き、どんな人が越えたのだろうか。
と書かれております。 当時は大沢峠はまだ自動車は通れなかったようですね。 氏の紀行文ではゴルフ場は触れられていません。 今の道はその後、ひょっとしたら1990年のゴルフ場の開業に向けて開かれたものなのかも。 この文からではブラリ峠は大沢峠の別名とも取れますが、 伝聞であるようですから確証というには弱そうです。 迅速測図では大沢峠は稜線伝いに猪之田へ降りており、また恋の沢上流部に降りる細い道も描かれていますから、 ここが恋ノ沢峠と呼ばれても不思議ではありません。 いっぽういま仮説としているブラリ峠の場所は、確かに恋ノ沢の上流ではありますが、沢には降りていないようですから、 恋ノ沢峠と呼ぶにはすこし無理があるような気がします。 ブラリ峠の存在密度関数はまだ一点収束しきっていませんが、 いっぽうで大沢峠古道の道標はいまでもあるのだろうか。 これは次の休日ハイクの目的地ですね。 なお小林 禎仁さんは同時期…昭和52年前後の吉井町の街並みや郊外の道の数多くの写真を掲載したフォトブックも発行されています。 その本を開いたとたん、タイムスリップが起きました。 そう…ハスラー50を乗り出したころ、ちょっと郊外に出れば景色はみんなこんなだった。 砂利の山道を登っていて日当たりの良い庭の物干し竿に洗濯物が干されている民家のわきを抜けるときは、砂ぼこりをたてないように減速し、 タッチの悪いシフトペダルを踏んで2速にシフトダウンし、通り過ぎたらこれまたタッチの悪いクラッチレバーを半分握って7000rpmまで引っ張る… あのころの風景はいったいどこに行ってしまったんだろう? |
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文献発見。前述ボウ坂峠と仮称したところは実際に
坊坂峠
と呼ばれていることを確認しました。
…一人息子を亡くした名主は、ひどく嘆き悲しみ、やがて、和尚さんを恨むようになりました。
「憎らしいのは和尚だ。和尚のやつが息子に毒藷を食わせたに違いない。この恨みは晴らさないでおくものか。」 さっそく、和尚さんをつかまえて、駒留の後ろの坊坂峠に穴を掘って石のカロウト(石びつ)を作り、その中に入れて生き埋めにしてしまいました。 ふじおか ふるさとの伝説 p037 「お日坊塚」 関口 正巳 著 社団法人藤岡青年会議所 20周年実行委員会 昭和61年10月12日 ISBN なし 高崎市新町図書館 蔵 この本によれば坊坂峠の畑中にいまでもひっそりと和尚さんが生き埋めにされた石ひつの石塔が立っているとのことです…。 2014-04-20 文献研究 坊坂峠の呼称を確定 |