その昔、甘楽と上日野は峠で結ばれていました。
上日野の人々にとって見れば、日野八里と呼ばれた長い道のりをたどって藤岡の町に出るよりは、
峠を越えて秋畑や小幡に出るほうがずっと近かったからです。
甘楽と上日野を隔てる東西に伸びる山脈を越える峠は、
現在の地図にも表れているもので西から東に小峠、
炮烙峠
、
亀穴峠
があり、
さらに東には吉井と下日野を結ぶものとして小梨峠があります。 小柏氏が居を構えていた上日野の小柏、ならびにその鮎川上流にある上平から甘楽小幡に出る峠として、二本岐峠がありました。 しかしいまではその名前も位置も正確に示した書物や刊行物は見当たりません。 ので、いろいろ自分なりに調べてまとめてみることにしました。 右に示すのは、おそらく江戸期の地図である上野國甘樂郡圖の部分拡大。 「二本木峠」が見えています。 この地図では村の名称が記入されていないものがあり、二本岐峠の日野側の地名も空白になっています。 またこの地図には精密な測量技術は用いられておらず、距離や位置関係および地形表現はいずれも不正確。 この地図からでは二本岐峠の正確な位置を知ることは全く不可能です。 |
| ||||
現代の地図で唯一、二本岐峠の位置を明確に示しているのが甘楽町の1万分の1地図。
この地図は平成に入ってから編纂された高精細な地図で、
甘楽町と藤岡市上日野の境をなす山脈に835.3mのちいさなピークがあり、その西50mの鞍部が「二本岐峠」としてはっきり示されています。
この位置を現代の市販電子地図に書き込んでみました (右図)。 右に掲げた電子地図では、字の境は水色の一点鎖線で示されており、 835.3mピークが字境として示されています。 字境の西側は北甘楽郡轟村 (現 甘楽郡甘楽町轟)、東側は北甘楽郡白倉村 (現 甘楽郡甘楽町白倉)です。 二本岐峠は一点鎖線の西側、すなわち轟(とどろく) に属しています。 甘楽町1万図そのものが間違っているという可能性は排除できないものの、 甘楽町公式の地図ですから、まず二本岐峠の位置はここで確定します。 |
| ||||
二本岐峠について書かれたものを探してみます。
甘楽町之地名 甘楽町地名調査会 1999年 p069 新屋地区
二本岐峠(ニホンキトウゲ)
ここで出てくる「二本木」は同書では
甘楽町之地名 甘楽町地名調査会 1999年 p069 新屋地区
二本木 (ニホンキ)
なお「平右衛門」は
甘楽町之地名 甘楽町地名調査会 1999年 p069 新屋地区
平右衛門(ヘエエモン)
さらに「半根石」は
甘楽町之地名 甘楽町地名調査会 1999年 p069 新屋地区
半根石(ハンネイシ)
ということで、白倉神社奥宮から南に登って行った最奥の地域が「二本木」で、 そこから日野に越す峠が「二本岐峠」だ、という解釈になっています。 いっぽう上日野での聞き取りをベースにしている藤岡市史では、
藤岡市史 第3編 交通・運輸・通信・交易 第1章 交通 p644
二本木峠 (にほうぎとうげ)
あれ、表記も読みも揺らいでいますね。 まあよくあることで不思議ではないでしょう。 岩佐 徹道さんは「群馬の峠」の出稿直前になって「二本木峠」の存在を知ったものの、 その峠はこの名著には掲載されませんでした。 氏は同書の「ほうろく峠」の文の中で:
岩佐 徹道 群馬の峠 南西の峡 (1971年) p182
ほうろく峠
・・・この店の正面の尾根にも峠があるらしい。 ミホギとかいう峠で小幡の轟へ抜けるそうだが、はっきりしない。 と書かれております。 氏は「ミホギ」と聞き取ったわけですが、 これはつまりお店のおかみさんは「ニホンキ」あるいは「ニホウキ」ではなくて「ニホウギ」と発音したものと解釈できます。 この話は昭和40年代、おかみさんはどこか他の土地から嫁いできた方かもしれません。 「はっきりしない。」は、おそらくおかみさん本人も二本岐峠を実際に歩いたことはなかったということなのでしょう。 であれば、おかみさんが「ニホウギ」を「ミホギ」と聞き取って、その後「ミホギ」と覚えたのかもしれません。 いずれにしろ、上平では「ニホウギ」と呼ばれていたことを示しています。 須田 茂さんの「群馬の峠」ではこの峠の記述はシンプルで、
須田 茂 群馬の峠 (2005年) 5B-07 p037
二本木峠 820m 藤岡市上日野の小柏〜甘楽町白倉・轟・小幡 とあるだけです。 どちら一方だけが正しいといったものではないのでしょうけれど、 本稿では以上のことを考え併せて、 「 二本岐峠(にほうぎとうげ) 」と表すことにします。 |
|
ここで明治40年の5万分の1地形図を読むと、
現藤岡市上日野の上平と現甘楽町の小幡を結ぶ歩道は描かれていますが、
前述の二本岐峠は越えていません。
峠越えは、835.3mピークから東南東に180mの位置にある鞍部を通過しているのです。
二本岐峠と、明治40年図での峠は、直線で230m離れています。
はてさて? 藤岡市史に次の記述があります。
藤岡市史 第3編 交通・運輸・通信・交易 第1章 交通 p644
水越峠 上日野から小幡宝積寺へ行く峠の名で、二本木峠の裏通りに当たる (小柏)。 「裏通り」とはこれまた解釈幅の広い表現です。 でも裏通りと言うからには、上日野から小幡に行くには二本岐峠を通るか水越峠を通るかの2通りのルートが存在していたということであり、 上日野から小幡に行くために二本岐峠を通りさらに水越峠を通る、あるいは水越峠を通ってから二本岐峠を通るということではない、 と解釈できます。 二本岐峠と水越峠は上日野-小幡ルート上で並列接続していたのであり、直列接続ではない、ということです。 明治40年図の峠は二本岐峠とたいして離れていませんが、ルート的にはたしかに二本岐峠の裏通りといえますから、 これが水越峠なのでしょうか。 現代の地形図から読むと二本岐峠の標高は820mとちょっとです。 標高としてはほんのわずか水越峠のほうが低いということになります。 現代の電子地図に、明治40年五万図の道筋と水越峠の位置を書き込んでみました。 右図参照。 二本岐峠の道筋を示した資料は手元にありませんので、 等高線を見ながら推定し、オレンジ色の一点鎖線で書き入れてみました。 須田 茂さんの「群馬の峠」では、
須田 茂 群馬の峠 (2005年) 5B-06 p037
水越峠 800m 藤岡市上日野の小柏〜甘楽町白倉 とシンプルな紹介。 この情報では位置の特定は無理だし、二本岐峠との関係も読むことはできません。 いっぽうで同書で示されている水越峠の標高は800m、これに対していま見ている835.3mピーク東稜線の鞍部は地形図から読むと812m前後。 同書でアンダーバーなしで書かれている標高は須田さんの推定値とのことですから、 ほぼ同じであるといえるでしょう。 すくなくとも須田さんが見ている水越峠は835.3mピーク東鞍部とは別のところ、とまでは思えません。 あるいは水越峠は二本岐峠から東あるいは西に離れた峠なのかもしれません。 二本岐峠のある尾根を東に向かうと亀穴峠・鳥屋峠がありますが、 地形を見るとそこまでの間には小柏に下りるのに適したルートはなさそうです。 二本岐峠から西に行くと 奈良山峠 ・炮烙峠になりますが、 二本岐峠と奈良山峠の間に上平に下りるのに適したルートはなさそうです。 水越峠はやはり835.3mピークすぐ東の鞍部だといえそうです。 さて水越峠の名の由来ですが、 「甘楽町之地名」には水越峠は出てきません。 いっぽう同書には「水越」の地名が掲載されています。 それには、
甘楽町之地名 甘楽町地名調査会 1999年 p014 小幡地区
水越(ミズコシ)
とあり、水越から南に向かって山に登っていくと七曲りに行きます。 ところが七曲りからさらに登ると、
甘楽町之地名 甘楽町地名調査会 1999年 p014 小幡地区
七曲(ナナマガリ)
あれれ、二本岐峠でも水越峠でもなく、 奈良山峠・炮烙峠に出てしまいました。 水越峠は小幡方面に下りると水越に着くから水越峠なのかと思いましたが、 どうやらそうではなさそうです。 するとなぜ水越峠? ひょっとするとこれは「見ズ越シ」峠なのかもしれません。 「水越峠は二本岐峠の裏通り」・・・ 一般の人が、小幡からの帰り道に二本岐峠で休んでいる小柏様に顔を合わさずに峠を越えられるということから付けられたのではないでしょうか。 |
明治40年5万図に示された道筋を書き加えてみた |
ということで机上検討はできあがりということにして、
正午12時帰宅予定で朝のハイキングに出かけます。
目的は水越峠。
はたして宝積寺側からアプローチして、白倉神社を通過せずに水越峠に到達できるのか。
さらに、ここが中峠らしいと思える場所に巡り合えればなおよし。 いのぶ〜 で大平のお天狗山登山口に着くと、 2年前に林の中のデルピス級の作業道を歩いたところ が新たに1車線デリカ級の広い林道として開削されていました。 ここを詰めればさらに水越峠に近づけると思いましたが、 昨日の雨でぬかるんだ砂利敷き前の林道はマッドで、 いのぶ〜のスクーター街乗りタイヤでは文字通り歯が立ちません。 ええっこんなところも登れないの? と憤慨しつつ、断念。 まっとうに登山口から登ることにします。 今回のトラックを図示すれば右図のとおり。 紫色の線は徒歩。 |
|
|||
最初の分岐でお天狗山には向かわず、進路を南にとって、
大平のなだらかな地形の東端にあたる部分をのんびりと登っていきます。
この道は古道ではなくて昭和に入ってから開かれた作業道なのかも知れません。
し、実は古道とまったく同じルートなのかも知れません。 右手のヒラはいま伐採が進んでいます。 ここ大平はそれこそ300年の昔から木は切り出され、広い秣場だったわけで、 また開墾地であり、小幡農業学校の実習林でもあったわけですから、 いま伐採が進んでいるといって驚く理由はどこにもありません。 ここで林業作業が長らく全く行われていないとすれば、 そちらの方がよっぽど異常な事態のはずです。 |
|
|||
さて大平沿いの道はそのまま水越峠に向かって進んでいくのかと思ったら、
進路を東に振り、高度を上げていきます。
あれれ?
これはやはり森林作業道かな。
でもまずは道にしたがって歩いていきます。
車両が入れるような幅ではありません。
フウフウいいながら歩き、あれ?
木がちょうど道をふさぐように倒れていますが、
ここはちょっとした峠になっているようだ。 実際にはそこは峠ではありませんでした。 乗り越えると道は右に回り込んで、やはり登っていきます。 でもいいや、ちょうどここらで一息、水を飲んで休憩。 ここが中峠と言われたら、それもアリかな、と思える場所です。 間伐されてゆったりとした林の中の道を歩いていくと、 左後方から上がってくるやや不明瞭な道と合流しました。 お、ここが白倉からの道との合流点か。 峠を越えると白倉からの道と合流する、となれば、 さきほどの峠のような場所は中峠の記述とも合致します。 ので、そこを中峠候補4と名付けることにしました。 もっともここは、「すぐ尾根東には白倉神社奥宮がある」場所にしては南すぎますので、 やはり中峠とは違うようですね。 |
右方に回り込んで登りが続くのだが峠とも思えて休憩した |
|||
さらに進むと、道は二手に分かれました。
ここが水越峠と二本岐峠の分岐点に違いない。
稜線を西側に乗り越え、水越峠を目指します。
写真では、正面を乗り越えて向うでてから左へ。 平野部では桜も終わりかけた4月中旬、 この山では木々がようやく芽吹き始めています。 まだヤブはないから歩きやすいなあ。 柔らかな腐葉土を踏みながら進んでいきます。 |
正面鞍部を越えて左に行けば水越峠 二本岐峠からの下りは手前左手から降りてくる |
|||
峠の手前で前橋営林所の境界見出し標を発見、そして峠に到達。
やった。 峠は道の部分が一段低く、切通しの作業が入っています。 やはり近世の作業なんだろうね。 ここからは甘楽野がきれいに見渡せます。 双眼鏡持ってくればわがラボも見えたかな。 水越峠には石造物のようなものは見られませんでした。 |
|
|||
峠の南側には、上平に降りていくような道は見つかりませんでした。
そのかわり峠からさほど下りずに二本岐峠方向に向かうかすかな踏み跡があります。
のでそれを進むことにしました。
急な斜面をトラバースするので、
トレッキングシューズを履いてきたもののやはり足首の曲げ負担がつらくなってきます。
これは運動不足のデブには堪えるぞ。
今日は天候悪化の可能性は少ないし低山とはいえ、
なにしろソロで来ていますから、足首捻って歩けなくなったら一大事だ。
どうせ誰も見ていない山の中、慎重に、ゆっくり進みます。 |
|
|||
835.3mピークは岩山でした。南側を通過して東に進みます。 郡村誌を読むと、二本木山という山が何回か言及されています。 二本木の谷を詰めた郡界の山のことなのですが、 この二本木山とははたしてこの835.3mピークのことなのか、 あるいは二本岐峠のすぐ東にあるやはり830mちょっとのピークのことなのか、 それとも白倉村と天引村の村界をなしている788mピークのことなのか。 いまのところ確信を持てずにいます。 ひょっとすると二本木山は二本木谷の奥の郡界の山ということで、 二本岐峠両脇のピークおよび二本岐峠を総称して呼ぶものなのかもしれません。 |
|
|||
ふう、二本岐峠に到着。 二本岐峠南側すぐから南下して下りていく道がありました。 いまでも小柏へ降りる道はあるのかもしれません。 そのうちいつかトライしよう。 峠には石仏が2体。 古い方のお地蔵さまはきっと小幡に往復する小柏どんに何べんもお会いになったのでしょう。 新しい方の馬頭観音さまは明治9年、新井 定吉という名が読めます。 時代が大きく変わり、小柏氏が勢力を失い、しかし小柏に住む人にとって二本岐峠が最重要な交通路だった頃。 どんな姿の人が通っていたのでしょうか。 |
|
|||
二本岐峠から北に降りる明るい道は穏やかに高度を落としていき、やがて水越-二本岐分岐点に戻りました。
いちおう熊を警戒してカウベルをコロンコロン言わせて明るい森の中を進み、
次の分岐で今度は白倉神社に向けて進路を取ります。
しかし踏み跡はやや不明瞭。進んで行って下りが急になるころ、
踏み跡はまったくわからなくなってしまいました。 国土地理院2万5000分の1地形図モードで動作しているNV-U37の表示から現在位置はわかりますが、 山の北斜面ですから見える衛星は少なく、PDOPは大幅に低下しているはず。 もっとも地形図と実際の地形を照らし合わせ、狂いはほとんどないことを確認。 明治40年5万図に示されている道上にいますが、いまや道は完全消滅。 でもまあ、あそこに見える谷に下りれば、すぐ先が神社なのは間違いない。 ただ、見通しは良いとはいえどうにやって降りていこう。 すると、あれ、遠くで人の声がする。 ハイカーではなくて、これはたぶん神社の清掃か何かの作業にきた人たちのようだ。 これなら想定外の事態になっても大声で助けを求められるでしょう。 山の急斜面は昨日の雨で落ち葉の下はぬかっていて、 透水層の露頭と思われるところではぐちゃぐちゃ、ときにズルズルと滑り落ちるように斜面を下り、 谷に出ました。 谷は倒木で埋まっていて、しかし行く手を阻まれるようなこともなく、 ようやく神社の倒壊寸前の旧建屋に出ました。 |
写真奥が上方 ここから下ってきた |
|||
神社まで行けばゆっくり休めるなと思い、
谷から奥宮へヒイヒイ言いながら登ります。
ふう、神社に到着。 奥宮では来週の例祭に向けて地元の人が15人ほど、 しめ縄飾りを新しいものに交換していました。 おっ、どっから来たんだい? あははは、ずいぶんドロドロじゃねえか。 トレッキングシューズの中に入った泥を出して一息ついて、 こういうルートで来たんですと話をしましたが、 むう、地元の人のはずなのに二本岐峠のことも水越峠のことも名前を聞いたことがあるというひとはわずか。 それでも「水越峠? むこうの山から轟に行く道だろ?」という人はいて、 また「二本岐峠…うん、子供の頃に堀沢から登って行ったことがあったな、炭を運ぶアルバイトでね。 今は堀沢の先はゴルフ場になっちゃったんだいね。」という人も。 でも中峠を知る人はいませんでした。 男衆が引き上げてふたたび静かになった神社を離れ、 お天狗山南の中峠候補1を越えて、よう、いのぶ〜、お待たせ。 一回りしてこれたよ。 |
|
ところでこの地域の峠の情報をさがしてウェブをサーチすると、
「小柏峠」という峠について書かれた紀行文がいくつか見つかります。
これらの紀行文では二本岐峠が「小柏峠」と示され、
水越峠は「無名峠」と示されています。
水越峠の名が知られていないのは納得できるとして、
二本岐峠は小柏峠と別称されていたことがあったのだろうか。 ここでまずは小柏という地名ですが、
ふじおか ふるさとの伝説 p024
小柏(オガシワ)
とあります。 小柏氏はそのあと明治の初めまで、この地を支配し続けました。 小柏は小さな集落ですが、いまでも上日野の中心といえる集落です。 しかし、はて、調べてみてもどうにも小柏峠に言及した書物が見つかりません。
須田 茂 群馬の峠 (2005年)
岩佐 徹道 群馬の峠 南西の峡 (1971年)
甘楽町史 九 交通・運搬・交易 (一) 交通路
藤岡市史 第1章 交通 (二) 峠・坂 1 峠道 p641
上野国甘楽郡村誌 巻九 上野国甘楽郡白倉村 p83
群馬縣多野郡誌 (1927年)
小さな旅 三宅 伴子 (1988年)
この山域を歩かれたベテランハイカーさんたちのウェブ記事を読んでいて、 どうやら次のようなことであるように思えてきました。 十分にあり得ることでしょう。 誰が間違っているとかいうことでもありません。 これい峠 の場合も、明治のどこかの時点で「栂峠」と改名されてしまった可能性 (これい峠=栂峠説)を私は捨てられずにいます。 いつの間にか稲含山北側の茂垣峠を鳥居峠と呼ぶ人が現れてしまったのも同じでしょう。 一般に手に入る地図には峠の名が示されておらず、すぐ近くに稲含神社の鳥居があるから鳥居峠とでも呼ぼう、 と考えたハイカーさんは悪気があったわけではないでしょう。 「ここは鳥居峠ではありません、茂垣峠です」という標識は結構効果があったようですが、 でもまだ鳥居峠と紹介するウェブページは存在し続けています。 二本岐峠の道は小柏からスタートしますから峠が「小柏峠」と呼ばれてもさほど不自然ではありません。 しかし忘れてならないのは、二本岐峠は小柏の人が買い物や行政あるいは参拝のために轟や小幡や宝積寺や白倉に行くために越えた峠である、ということ。 その逆の、甘楽・小幡の人が小柏に来る必要性は少なかったはずです。 それゆえ、呼び名としてはいわゆる「目的地名タイプ」になるほうがむしろ自然。 小幡に行く峠なのだから小幡峠、あるいは白倉峠とか。 そのいっぽうで、上日野の絶対支配者として長きに亘り権力を持ち続けた小柏氏が峠に自らの名を冠した、 あるいは自然とそう呼ばれるようになったということがあったとしても、 これまた不思議なことでもありません。 一番の疑問なのは、それならなぜ公式な史誌に「小柏峠」の名称が表れてこないのか、ということです。 はたして二本岐峠は小柏氏の支配時代に小柏峠と呼ばれたことがあったのか? それとも明治に入って小柏氏が没落した後に地元の人にそう呼ばれ始めたものなのか? あるいは高度経済成長期後にリクリエーションの目的で上日野を訪れたハイカーさんが気軽にそう名づけただけのことだったのか? ひょっとして事実は逆、つまり昔からそこは小柏峠だったけれど、 いつの間にか小幡側の呼び名である二本岐峠が定着し、あるいは何らかの理由で小柏の名が忌避され、小柏峠とは呼ばれなくなったとか? 白倉神社で例祭の準備をしていた男衆と話をした時も小柏峠のことを聞いてみたのですが、 二本岐峠なら知ってはいても、小柏峠という名を知る人は一人もいませんでした。 二本岐峠に一番近い歴史的建造物である白倉神社奥宮、その例祭を担当する男衆約15人、 それが誰も知らないというのですから、やはり小柏峠というのは古くから伝わってきた名前ではないようです。 二本岐峠が小柏-小幡間あるいは小柏-轟間の交通機能を完全に失ったのちに小柏側の人たちがそう呼び始めたという可能性はあるかもしれませんが、 そうであれば現地聞き取りを基にした藤岡市史に記述がないのはあまりにも不自然。 やはり外部の人間によるネーミングなんでしょうね。 ということで現時点で小柏峠についての私の解釈は、 二本岐峠が、1970年代後半にハイカーさんたちによって小柏峠と呼ばれるようになったもの です。 いまから40年前に「小柏峠」の標識を取り付けた人がどんな理由でそう名付けたのか、 今となっては知ることは叶わないでしょうか。 |
|
今回実際に宝積寺から登り始め、白倉神社奥宮も二本岐峠も通らずに水越峠に到達できましたが、
謎は残っています。
「水越峠は小柏・上平を出て甘楽轟にある宝積寺に行くのに利用された」とされていますが、
その古道が見つかっていません。 今回歩いたルート(前掲地図の紫色の道)を使えば、 上平あるいは小柏を出発し、水越峠を越えて、白倉神社の手前で西側の大平に下り、 そこから長坂を通って宝積寺に行くことはできます。 しかしそのルートは二本岐峠ルートと共通区間を含みますから、なにも水越峠を使わずとも、 二本岐峠を使ってもいいのです。 とくに小柏から出発して宝積寺に行くなら、水越峠経由はわざわざ遠回りになってしまうだけで、 利用価値はありません。 水越峠が水越峠として存在するためには、峠から北西に向かい、 まっすぐ宝積寺を目指すルートが欠かせないと思われるのです。 しかも水越峠というその名を考えると、古道はきっと水越を通過していたはずだ、 と思いたくなります。 でもそれはどういうルートだったのだろう? 現在は行き止まりになっている菊ヶ池の林道、 鷲レイ山の北側を回り込んで開削工事が進められている林道草喰八丁河原線D区間。 水越峠を下り始めた古い道は鷲レイ山(じれいさん)の北あたりを通りながら水越に達し、 奈良山峠道に合流して宝晶院から宝積寺に行ったのではないか・・・と想像します。 しかしこのルートを想像で地図に書き入れてみるのはなかなか困難。 いっぽう友人が提唱したのが、水越峠からすぐ西に向かい、 ほぼ等高線に沿って熊倉山896.2mの北側を通過し、 轟と上日野の奈良山を結ぶ奈良山峠道 に合流するルート。 右の地図では濃いオレンジ色の一点鎖線で書き入れてあります。 この区間の距離は約1500m。 遠回りなように見えますが、熊倉山北側は等高線にほぼ沿って進んだとすればさほどの高低差はなかったでしょう。 奈良山峠道は明治40年5万図にも太い道として残っています (右図では濃いグリーンの破線で示しています)。 途中七曲りの急坂区間はあるものの、整備状況は良かったはず。 そしてなによりこのルートなら、しっかりと水越を通過します。 水越峠が水越峠として文句なく成立すると思えます。 この推定の弱点は、ルートのかなりの部分が奈良山峠道と共通であったのなら、 その旨が史料に書き残されていないのが奇妙に思えてしまうこと。 あるいは中間のソリューションとして、 鷲レイ山の南側、クツハシカミのあたりを通って水越付近に下りるパスがあったかもしれません。 さて…どこかに資料が眠っていたりするでしょうか? |
|
さて・・・ここまで「二本岐峠は小柏氏が越えた峠」と繰り返し書いてきましたが、
それならば
藤岡市史 第3編 交通・運輸・通信・交易 第1章 交通 p644
二本木峠 (にほうぎとうげ)
というのはどういうことなのでしょう? 小柏の小柏八郎右衛門が小幡に行き、帰りに越えたのは炮烙峠。 ここで八郎右衛門はうっかり名刀百足丸を峠に置き忘れて峠を下ってしまいます。 気がついて慌てて峠に戻ろうとすると峠から降りてきた村の人と行き会い・・・・ という 昔話があります(ふじおか ふるさとの伝説 p028)。 小柏から小幡に行って、帰るときに炮烙峠を越えた? もちろんそっちに行くこともあったんだろうけれど、 奈良山峠 ルートを使ったのだとしても、そりゃあかなりの遠回りだよ? もしかして何らかの理由があって、小柏氏は二本岐峠は使わなかった? 関連した文献かなにかがないだろうかと日野公民館の図書室に立ち寄って調べているとき、 となりでヨメが 「『方忌(ホウギ)』の意味をよく考えてみろ」 と意味深く言いました。 むむ! これまた今後の課題。 |
|
小柏 正弘氏によって2011年におそらく自費出版された、「小柏氏系譜と戦国武将」という書籍を見つけました (出版社名なし、ISBNなし)。
同氏は多くの時間をかけ数多くの資料を精力的に調査研究し、逸散し失われつつある小柏氏の系譜を再構築されています。
この書籍の中で、1665年頃に小柏氏一族のひとりが天引村に移住し、天引小柏氏が生まれたとあります。
さらにこの中で同氏は以下のように書かれています。
小柏氏系譜と戦国武将 小柏 正弘 氏 著 2011年 p056 天引小柏氏の歴史 より抜粋
矢掛は小柏(村)の少し下流に位置しており、地元の人々は長大な迂回路となる金井・多比良周りのルートは取らず、頻繁に亀穴峠を利用していた。 小柏(村)と平殿・久保とは亀穴峠を挟んで南と北の位置関係にある。 著者来歴もなく前書きもなくいきなり考察で書き始まるこの本はワープロ印字原稿を製本業者に出稿したものとみられますが、小柏峠の名が活字となっているはじめての書籍にめぐりあえました。 このほかにもウェブ記事で小柏峠について書かれたものを拝読するに、どうやら二本岐峠はいまでは地元の人も小柏峠と呼ぶようになっているようです。 となると、外来のハイカーさんが手作り標識を取り付けたころには地元の人が小柏峠と呼ぶようになっていていたのかもしれません。 なので、小柏峠についての私の解釈を 二本岐峠は、1970年代以降は小柏峠と呼ばれるようになった に改めます。 さて、上記に引用させていただいた同書の記述を読むと、 堂の入から亀穴峠に登る道 が江戸時代に交通路として使われていたようです。 明治40年の5万図では堂の入から亀穴峠に上がる道は途中で切れているし、そもそもそのルートに言及した書籍はいままで見たことがなく、 ここは交通路としては使われていなかったのだと考えていました。 これはびっくり、新しい知見です。 しかし落ち着いて読み直すと「旧白倉神社の近くを通り」とあります。 堂の入から谷を詰めて亀山峠に行ったら、 どうみても白倉神社の近くを通っているとは言えません。 どうやら上記引用中で言及されているルートは、堂の入から小さな峠を越えて平石に出て、そこから山に向かって登り、白倉神社から(二本岐峠に行かずに)亀穴峠に行き、 日野矢掛に降りるルートだったのでしょう。 いやまてよ、だとすると「亀穴峠からは尾根筋を通り小柏峠を経由して上日野小柏に降りられる」 と矛盾するぞ。 やはり堂の入-亀穴峠の直路は江戸時代に天引小柏氏によって使われていたということなのでしょうか? 天引平殿の小柏氏が日野小柏の小柏氏に用事に行くなら堂の入から平石に抜けて白倉神社・二本岐峠ルートをとればいいし、 日野矢掛の人は小幡に行くなら亀穴峠を、また天引に行くなら鳥屋峠(新屋峠)を使えばいいから、 堂の入-亀穴峠ルートは不可欠なルートではなかったのだろうと思います。 おそらく明治の早いうちには衰退していたのでしょう。 亀穴峠は、迅速測圖のカバー範囲からほんの少しだけ外れています。 明治21年に発行された迅速測圖がカバーしていてくれれば、このへんの変遷を知りえたのでしょうけれど。 |
|