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長い間の西上州の住民でありながら、須田 茂さんの「群馬の峠」を読むまで「これい峠」のことは聞いたことがありませんでした。
はたしてこれい峠ってどこなんだろう。
ウェブをサーチすると、関連情報量は極めて少なく、
相当前に峠としての価値も機能も失われ、近年これい峠を目指した人はその道をみつけられなかったとのこと。
さらにはそれが実際のところ正確にどこであるのかも不確かになっているようです。 これい峠は西上州の上信国境の峠。 そんな様子では短距離ハイクしかできない私が到達できる場所ではありません。 ので、せめて地図を眺めて、ありし日のこれい峠を思い巡らせてみることにします。 |
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1838年にシリーズが完成した「天保國絵圖」の「上野国」をみると、これい峠が描かれています。
此、これい峠。嶺通国境。信濃国にても同名。
とあります。楢原村之内白井より信濃国相木村迄五里。 此処より拾石峠迄之間山國境不相知。 地図に描かれた道筋は、白井関を通り過ぎた後分岐し、北への分岐は十石峠へ、南への分岐がこれい峠に達します。 白井関を通った後で十石峠への道から南に分岐しているとすれば、栂峠のあたりといえそうです。 もう少し南に下って現代のぶどう峠のあたりの鞍部越えを狙うなら、白井関ですぐに十石道から分かれ、 三岐のあたりから北沢沿いに登るか、もう少し行って中ノ沢から日向沢沿いに登るかというルートが自然に思えます。 十石峠道と分かれるのが白井関を通過した後であるならば、 ぶどう峠近辺の鞍部というのはすこし不自然に思えます。 ひょっとして、 これい峠=栂峠 だったりするのでしょうか。 栂峠もぶどう峠も、峠を越えれば相木川沿いに降り、長野県北相木村に達します。 このあたりにあった峠ならば、 これい峠は北相木への道だった はずです。 |
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おや、こちらではヨレイ峠となっているぞ。
記事は
此ヨレイ峠国境信州ニテ同名
とあり、天保國絵圖と同じ内容。
しかしこちらでは、白井関ですぐに十石道から分かれて南に向かい、"寒行"・"中沢"の集落を抜けています。此処ヨリ拾石峠マテ山國境不知 白井ヨリ相木エ五リ "寒行"は、現在の地図で「神行橋」があるあたりでしょう。 ここは神流川沿いで、三岐で神流川から日向沢が北に分岐する手前。 三岐から日向沢沿いに進めば中ノ沢です。 いったん日向沢沿いに進んで中ノ沢集落を通っているとなると、現在の栂峠に向かうのは理不尽だから、 これい峠 ≠ 栂峠 ですね。 であれば、現在のぶどう峠と似たような位置だったのだろうか。 ぶどう峠に近いのであれば、峠を越えれば北相木に降ります。 これい峠は北相木への道だった というのは同じ。 |
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今度は、白井関ですぐに十石道と別れていますが、中ノ沢集落は通らず、そのすこし北を通っています。
北沢沿いに入って、栂峠あたりを目指しているのだろうか。 いっぽう、峠を降りると信州の"白岩"を通過しています。 白岩は、北相木の相木川北岸の集落です。 現在の栂峠あるいはぶどう峠を越えると、白岩を通過します。 いずれの位置にせよ これい峠は北相木に抜ける道 です。 さらによく見ると、峠を越えてから南に分岐して、"尾倉山"の西を南下して南相木の"三河田"を通るルートも描かれています。 実際には、御座山の西稜線を越えて現在の三川のあたりに降りるのはなにか無理があります。 このへんは作図の不正確さによるものなのでしょう。 これい峠を越えて南相木に行くルートもあったけれど、峠の位置としては これい峠は栂峠あるいはぶどう峠のあたりにあった といえそうです。 |
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こちらは国会図書館蔵ですが年代が不明。
天保期か、その後か?
素人には江戸中後期だろうとくらいしか見当がつきません。
すっきりしたカートグラフィです。 これい峠はまぎれもなく、白井関を通過した後で十石道と分岐しています。 これはほぼ間違いなさそうです。 この地図では、いままで出てきていた磯峠と横見峠がありません。 この地図が描かれた頃にはこれら2つの峠は重要性を失い始めていたということなのでしょうか。 それとも単に、重要な道だけが描かれたものなのか。 もし重要な道だけが描かれたというのであれば、 これい峠は十石峠と同様に重要な道だったということになります。 |
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時代は40年ほど進んで明治時代。
お、さすがに進歩したな。
幼稚園児が描くような山の地図とは違って、地形表現が正確になってきた。 と思いきや、とんでもない!! コレイ峠は三国山の東に描かれているじゃないか!! これじゃあ秩父に行こうと思ってコレイ峠を越えたらそこは長野だった、 ということになるぞ。 それに、「拾石峠(十石峠)」のはずが、「捨石峠」になってるぞ。 拾うと捨てるじゃ正反対だ。 作成者は有名な十石峠を知らなかったわけだから、 このあたりは別の地図を参照して書き、そのあとピアレビューも行われなかったのでしょう。 神流川源流の流れが省略されているし、なにしろこのあたりの距離感がめちゃくちゃです。 いっぽう、明治2年(1869年)01月20日の大政官布告で江戸時代の関所は廃止されていたから、明治12年のこの地図で「白井」が描かれていないのは不思議ではありません。 |
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こちらは同じく明治初期。
県境の形状が記憶だけで書いたようないい加減さであるところを見ると上の「群馬県管内上野國圖」に対してずっと幼稚なカートグラフィに見えますが、
神流川源流域の表現はずっと正確です。 この地図によると、これい峠への道は白井を通過してからしばらく一緒、途中で南に分岐して北相木に出ています。 注記にはっきりと「北相木へ出ル」と書かれています。 間違いなく これい峠は北相木への道だった といえます。し、この図では これい峠 = 栂峠 説が復活してきます。 この地図でも「捨石峠」です。 地図の作成は従前のものを参照するのがやはり基本だったのでしょうね。 さて、この地図では十石峠の北に"新道越"が描かれています。 現在の大上峠のことを指しているのでしょうか? |
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現代の国土地理院の地形図を見ると、上野村中ノ沢を基点にして沢沿いから離れ南西に向かい、品塩山の西側を通り、
県境の峠を越えて南相木の大黒沢に抜ける破線道が描かれています(右図で青色のルート)。
これが重大なポイント。
なぜならこのルートがこれい峠であると解釈されている例があるようなのです。 地形図の峠に名称は入っていないのですが、 ルート上に「会所」や「茶屋の平」の地名があるから、古来の上信交通ルートだったのは間違いないと思います。 しかし文献では 「ここが昔これい峠と呼ばれていた」という確証は明示されていない のです。 ここはこれい峠ではないんじゃないのかなあ。 この茶屋ノ平に出る峠がこれい峠でなかったのならば、では何と呼ばれていたのだろう? ひょっとしてここが「蟻ヶ峠」なのではないのかな? 古い地図を見ると、天保の地図3つにおいて蟻ヶ峠は仲ノ沢本谷の先に図示されています。 これは現代の地形図に破線道として描かれているこの峠の位置に合うように思えます。 でも、やはりそんなことはない ようです。 茶屋ノ平ルートの峠と蟻か峠については、蟻ヶ峠ページでディスカッションを続けます。 なお南相木川の地図を見ていて、昭文社Super Mapple Digital 13DLでは「茶屋ノ平」の位置が西に700mほどずれて書かれていることにも気がつきました。 最新バージョンの電子マップだからといって鵜呑みにしてはいけないようです。 |
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天保6年(1835年)の「信濃國大繪圖」(「古地図で見る信州」サイト から) を見ると、
北相木の東に白岩を通過する"これい峠"があり、"上州白井道"とあります。
これはいままで見てきた観察に合いますし、
これい峠は信州側でもそう呼ばれていたと判断できます。 |
[Original] 古地図でみる信州 から 信濃國大繪圖 天保6年(1835年) |
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明治初期の「北相木村繪圖略系」(信州デジくら から) を見ると、
村の東に峠があり「上野國北甘楽郡楢原・大仁田道」と描かれています。
峠名はありません。
この峠道は三寸木の東の沢伝いに北上しているので、この沢は今の栂峠川でしょう。
やはりこの峠は栂峠であると思われます。 「これい峠と栂峠が別の峠だとしたら、 これい峠から寄沢沿いに白岩に降りるルートがあったのかもしれない」と前述しましたが、 寄沢沿いの道は峠を越えてはいなかったようです。 信州デジくらでは北相木村村史を読むこともできますが、それには峠の記述はありません。 ただ村の東の道を行けば楢原に行く、とあるだけ。 北相木の地図にはまた、木次原の奥に進む細い道があり、ひとつの分岐は国境近くまで伸びています。 これはいまのぶどう峠の前駆的なルートでしょう。 |
[Original] 信州デジくら 北相木村村絵図略系 |
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とにかく、どちらの地図にも、またいままで見てきたどの地図でも、
北相木と楢原村を結ぶ道筋は一つしか描かれていません。
道筋が1本しかないなら、
その通過ルートに「これい峠」と「栂峠」の2つのネームド・プレイスをもつ要請はなさそうに思われます。
道筋が2本あったのなら、出発地と目的地が同じであれば労力のかかるほうの道はすぐに廃れそうなものです。
当時の峠はレジャーのための目的地ではなくて必要に迫られて苦しい思いをしながらやむなく通った道なのですから。 これらのことからは、やはり当初の仮説 これい峠は栂峠と同じ峠である を棄却することができません。 さて、この仮説を採用するのであれば、次の疑問は: |
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大正元年測量・昭和4年修正の五万図 (「地形図のたのしみ」から)
では、「栂峠」の名称がみられます。
いままで見てきた地図等からすると、「栂峠」名称の出現は明治20年前後以降で、
大正期までには出現しているということになります。
このころにはすでに上野村―北相木間の商流の重要性は低下していたはずで、
となれば地域間経済流通とは異なるなんらかの理由から出てきたものなのでしょうか。 もうひとつの疑問は、 これは現地に赴くか、栂峠の石造物の詳細な写真等がどこかにないか探してみることになりそうです。 明治11年に神流川に沿って鬼石へ出る新道車道が整備され、 明治23年(1890年)には新町と楢原村との間に運送馬車が通るようになりました。 これにより上野村への物資流通は中里・万場・鬼石方面からのものが主流になり、 冬季には通行困難となる山岳峠道への依存度は大きく低下します。 十石峠に比べ利便性の劣るこれい峠は急速に廃れていったとしても不思議ではありません。 大正の頃にはほとんど利用されなくなっていたのでしょう。 |
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今までの考察からは、これい峠は栂峠そのものであるか、
あるいは栂峠から稜線を北に上がった、
水の戸からの登り道が稜線に接する場所のどちらかです。
今は近くまで林道が伸びているようですが、
ゲートで閉鎖されていたりしてモーターサイクルでは到達できないようだし、
栂峠には一度も行ったことはなかったのです。
ハスラー50
で奥多野に足を運ぶようになって35年近いのに。 でもここまで調べたんだし、やはり実際に行ってみるべきだな。 これい峠がどちらの場所であれ。 そこで、ヨメを道連れに、栂峠に行くことにしました。 栂峠を目指すなら、基本的には4つのルートがあります。 水の戸から登るのが古来伝統のコースですが、 夫婦揃って普段はヒッキーな生活をしているので、 本格的な登山はできません。 ので、車両は ターボ・ファルコン号 を使い、距離的に一番近い栂峠林道ルートをとることにしました。 栂峠入口の標識のある登山道を登り始めると、すぐに斜面を真正面で登っていく急坂になりました。 体力不足・高血圧の身にこれはきつい!! あえぎあえぎ、休み休み登って、東電の鉄塔ピークに到達。 この道は基本的に東電の鉄塔保守のための道であり、地形図に描かれた登山道とはかなり違います。 心臓発作で山の中で死ぬのはいやだから、この先もこんな道だったら撤退しようと思いましたが、 鉄塔ピークの先は引き籠り夫婦の週末ハイキングにちょうどいい、気持ちの良い広い道。 峠の近くは鹿のフンだらけの明るい林の中を抜けるルートですが、 それでもNV-U37の地形図モードの助けを借りて、栂峠に到着。 おお、これが栂峠のお地蔵さまだ。 初めまして、ここに来るのに35年もかかってしまいました。 かわいらしいお地蔵様の背面にはなにやら文字が掘ってあるようでしたが、 風化が進んでいて読むことができません。 拓本を取るのも良くないだろうと思いましたし、お地蔵様からこれい峠のヒントを得ることはできませんでした。 つぎは水の戸からの登りが合流する地点まで、カウベルをコロンコロン鳴らしながらのんびりと稜線をハイク。 稜線には1車線幅の林道が走っていて、ガードレールやカーブミラーも部分的に設置されているのですが、 維持放棄されて数年は経つようで、 複数箇所で崩落していて四輪車での走行は無理。 さらには倒木も数ヵ所あり、 最初からそのつもりで準備したアタックチームでない限りモーターサイクルでも通過できません。 実際、新しいタイヤ跡は皆無でした。 さて、地図で見てここがこれい峠だったのではなかろうかと思う地点は、 水の戸からの登り道が国境稜線に接する古い切通しの鞍部。 さらに今では新三郎沢からの登りの道も合流し、十石峠への稜線の道と合わせ四分岐になっています。 白井関を通って信州を目指し、水の戸を分岐して山中領最深部の薄暗くて長く苦しい山道を登りきったあとに国境稜線に到達して見晴らしがぱあっと広がったとしたら、 誰しも感慨を覚えるでしょう。 そこからさらに平坦に近い稜線を歩いた先の、北相木に降り始める地点である栂峠には、 それほどのインパクトがあったとは思えません。 峠の呼び名とは登り切った地点につけられるものであって、 下り始める地点につけられるものではないのだろうと感じられました。 「道筋が1本しかないなら、 その通過ルートに2つのネームド・プレイスをもつ要請はなさそうに思われる」と前述したけれど、 「楢原村水の戸からの登りが稜線に到達する地点」と 「北相木白岩からの登りが稜線に到達する地点」はそれぞれ立派に峠と呼ばれる資格を持った地点であり、 その二つの峠が稜線で結ばれていたというわけです。 この場合、上州側からの峠はこれい峠と呼ばれ、信州側からの峠は栂峠と呼ばれていたとして不思議ではありませんし、 信州側の道と栂峠の名称は残ったけれど、上州側の道は明治中期以降は実用価値を失って廃れ、 これい峠の呼び名は人々の記憶から完全に消え去ってしまった… ということなのでしょう。 さらに時間をかけて古い石碑でもないか探してみたかったのですが、 すぐ西のあたりからゴロゴロ聞こえてきました。 垂れ始めた雲が稜線とピークの周りで速くて複雑な動きを見せています。 暑い夏の午後2時だし、これは強烈な雷雨になるかも。 休憩もそこそこに、後ろ髪をひかれながら引き返しました。 結果、残念、ここがこれい峠だという物証は見つけられなかった。 でも言えるのは、あそこはなんらかの固有名詞が付いていてもまったくおかしくない場所だということ。 そこで、現時点での仮説として、 水の戸から南に分岐して北相木に向かう登り道が国境稜線に達した地点がこれい峠である と提唱してみることにします。 さて、ホントかな? |
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「これい峠=栂峠、すくなくとも同一経路説」を提唱して早くも2年半が経過。
いくつか新しい古地図 (なんだそれ…)がみつかりました。 上田市マルチメディア情報センターが 正保の信濃国絵図を非常に精細に見られるブラウザビューワとともに提供 してくれています。 これはいままで見てきた絵地図よりずいぶん時代をさかのぼるもの。 北相木の道を見ると、東は拾石峠に合して上州山中ノ内白井につながっています。 実際には栂峠=これい峠の道が大日向からの道と合流するのは十石峠の東の水の戸ですから不正確な表現ですが、 北相木から東に行けば白井関に行く、という接続概念の点では正確です。 この地図では南相木と上州山中領をつなぐ道は描かれていません。 そのかわり南相木から南東に進んで山を越えて千曲川沿い現川上村の居倉に出て、 秋山村を通過しておそらく十文字峠(あるいは三國峠か?)を越えるルートが見えます。 北相木村が秩父方面と行き来するとしたら山中領経由で、南相木村が秩父と行き来するのは中津川経由、 と考えられていたということなのでしょうか。 |
[Original] 上田市市立博物館所蔵 上田市マルチメディア情報センター 正保の信濃国絵図 |
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上田市マルチメディア情報センターが提供しているもうひとつの國絵図が
元禄の信濃国絵図
。
こちらは1701年。
ムラをつなぐルートの接続概念がかなり正確に書かれており、
山岳部の接続も正確になってきています。 これい峠はその名称とともに白井関に行く道であることが描かれています。 蟻ヶ峠も見えますがそこに道は描かれておらず、 また南相木村の奥に道はありません。 南相木からは正保の信濃国絵図と同様に居倉に出て秋山村を通過し、十文字峠を越えて秩父に出る道が描かれています。 ここまで私は主としてインターネットで公開されている絵地図をいろいろ眺めて、 これい峠は楢原村白井と北相木村とをつなぐ峠道だと結論しています。 そのこれい峠道はいつごろから利用されていたのでしょうか? 北相木村には縄文時代の遺跡があり、かなり早い時代から人間が生活を始めていることは明らかです。 当然、狩猟のために人々は奥深い山にも入り込んでいたでしょう。 それがやがてムラとムラとの交通交易路として確立していき、 そして峠が名前で呼ばれるようになります。 深い山を隔てた集落間の交通ルートの開発を推し進める最大の力は、やはり軍事。 効果的な進攻を欲するならば地理の把握は最優先事項。 今まで見てきた地図はいずれも江戸時代のものですが、 戦国時代の絵地図があってもよさそうです。 そして北相木のむかしを調べだすと、たちまちNHKの大河ドラマの世界に放り込まれてしまいます。 うう、こっち方面まるきり弱いんだよなあ。 |
[Original] 上田市市立博物館所蔵 上田市マルチメディア情報センター 元禄の信濃国絵図 |
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この地図では、これい峠の経路は白井関を出てから十石峠道と分岐して峠を越えていますが、
その行先は「白岩又三河田出」とあります。
栂峠を経由して南相木の三川に出るルートは、どんなものだったのでしょうか?
御座山を越えて栗生川に降り、さらに栗生坂で三川へ?
ずいぶんな道のりです。
それとも稜線沿いにルートがあったのでしょうか? この「大日本国細圖」はいまでいう分県地図ですが、 信濃国の地図を見ても南相木と上野國をつなぐルートは描かれていません。 南相木は秩父へのゲートウェイであり、上野村に向かうトラフィックは少なかったのでしょう。 しかしまあ、この地図では上・武・信の三国峠から赤岩峠そして志賀坂峠までがとても近く書かれています。 上武国境の地形距離の表現ときたらとんでもなくめちゃくちゃ、といえますね。 よく見たらこの地図では、上武国境は神流川による川分けになっているようです。 |
[Original] 札幌市中央図書館デジタルライブラリー 銅鐫大日本国細図 |
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群馬県全図です。
十石峠もこれい峠も峠の名前などの記載はありません。
これい峠道は白川から分岐しています…あれっ、白井ではなくて白川と書かれていますね。
これはほかにも転記ミスがありそう。
そうみると、楢原が「樽原」と書かれていますし、だいたい堂所と楢原の位置関係は逆じゃないのかな。 この地図でのこれい峠道は白井関を過ぎた後に川を渡っていますが、 これは現在の北沢を渡っているということなのでしょうか。 現在のぶどう峠ルートに近いようにも見えます。 ほかの場所を見ると、道路は小判型の集落マークを突っ切っているようには書かれておらず、 その脇を通過するように赤い線が引かれています。 よって、この地図で「これい峠への道は中ノ沢を通過していない」と言い切るのは苦しいものがありますね。 もしこれい峠への道が中ノ沢を通過しているのなら、 「これい峠は栂峠ルート」説には逆風で、 のいずれをも支持することになります。 なんにせよこの地図でそこまでの正確さは出ていないでしょうから、 結局この地図からでは「これい峠のルートはどれだか釈然としない」というオチでしょうか。 浜平までの道はそこではっきり行き止まりになっています。 「浜平から奥に行く交通ルートはなかった」といえるでしょう。 神流川源流への道はなかったわけです。 |
[Original] 群馬県立図書館デジタルライブラリー 上野國大地図 |
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別の問題は、信府統記に現れる「相木村」は北相木村のことなのか、南相木村なのか。
相木氏の居城について言及されていますが、相木城は南相木村に古城が、北相木村に新城がありました。
また「相木市兵衛」は相木氏代々で受け継がれた名であり、特定の一個人を示していません。
これについては
郡村誌の北相木村誌ならびに南相木村誌に記述があり、
戦いに敗れた相木氏は白岩を通って山越えして上州領に逃れた、とあります。
使われたのは栂峠ルートに間違いなく、
信府統記でのこれい峠の記述での「相木村」は北相木村を示しているとみてよいと思われます。 |
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触れられている文献がとても少ないこれい峠ですので、
この峠がどのような歴史を持つのかを知るのは容易ではないでしょう。
目についたものを書き出してみることにします。 まずは郡村誌から、南相木村村誌。
郡村誌から: 信濃国佐久郡南相木村 村誌 明治十二年六月編
古跡 相木能登守常喜初メ與七郎後市兵衛ト称トアリ 北相木村諏方社棟札ニ永禄十一年四月三日本願依田民部焏長繁同子息与七郎岳繁トアリ是ハ相木常喜トハ別人ナランカ常源寺古文書ニ永禄三年相木常喜トアリ 常喜ノ妻ハ山縣昌景ノ女ナリ昌景江尻ニ在城ス常喜相備組衆ノ中ニテ八十騎ノ将ナリ 里俗傳ニ八十騎後十六騎ヲ加ヘラレ九十六騎ノ将ト云フ確乎タラス 常源寺過去帳常喜永禄十年正月四日卒ス同帳ニ相木市兵衛常祐又采女遠州高天神城ヲ守ル天正九年三月廿二日徳川勢ノ為メニ戦死ス又相木能登守常武アリ 按ニ常源寺過去帳モ後ニ記シタルモノナレハ確乎タラス 編年集成ニ相木市兵衛昌朝高天神城ヲ遁ルトアリ又同書ニ依田能登遁ルトアリサレハ市兵衛昌朝常祐ト能登恐ラクハ同人ニテ遁レテ甲州ヘ帰シナランカ十年三月武田勝頼滅ヒ織田信長ノ所有トナリ本郡其臣瀧川左近将監一益ノ所領トナル六月織田父子ノ凶變ヲ聞キ一益上國ス北條氏直大挙シテ本郡ヲ侵ス諸将皆降ス相木能登守田ノ口城ニ居シテ 相木氏本村ヨリ之ニ移ル 北條氏エ降ル徳川氏ノ幕下依田信蕃初メ諸将本郡ノ諸城ヲ襲フ北條氏直甲州ニ入徳川家康ト戦フ十月和ヲ議シテ本郡徳川氏ノ所領トナル十一月信蕃以下ノ諸将田ノ口城ヲ攻畧ス相木能登守遁レテ相州小田原ヘ走ル天正十八年五月能登伴野刑部ト議シテ本郡ヘ来リ旧臣ヲ集メ勝間ヶ原ニテ松平 夲姓依田 修理太夫康國ト戦フ相木氏伴野氏敗レテ又平林 按ニ本郡平林ノ地名數所ニアリコレハ何処ト云フ未詳シカレトモ本村西ノ方ニ甲州ヘノ通路ニコノ地名アリ又北相木村字屋敷平ニテ戦シト里老ノ口碑モアリ後考ヲ俟ツ ニテ戦フ又敗績シテ刑部ハ戦死シ 相木氏ハ白岩ト云フ処ヨリ山越ニテ上州甘楽郡野栗谷ト云フ所ヘ遁ル 後徳川氏ノ幕下内藤氏ノ食客トナリ後ニ家臣トナル 天正18年 (1590年) に戦に敗れた相木氏は、 白岩を通って…つまり栂峠ルートで現上野村の野栗に逃げたと書かれています。 |
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ここまでの検討結果から私は
「これい峠は楢原村白井と北相木村をつなぐ栂峠ルート上にあり、大正の頃からこれい峠とは呼ばれなくなった」
と提唱しているわけですが、
もしその通りだったのだとすれば、 いつのころから、さらにはどのようにして、南相木への道がこれい峠だと思われるようになったのか? いまは休刊となってしまって久しい『上州路』のバックナンバーを読み返してみると、須田 茂さんは
上州路 2006年01月号 須田 茂 連載23 群馬の峠を歩く 奥多野の三国峠
3. 神流川源流域の峠への探訪 ぶどう峠からこれい峠へ
と書かれており、また同稿に掲載されている地図に1916m峰の東南東で県境稜線を越える地点にはっきりと「これい峠」と示されておいでです。 これはおそらく現在の地理院地図でも破線で示されているルートで、白井から中ノ沢を通過して品塩山の稜線を進むルートでしょう。 須田さんは「群馬の峠」でもこれい峠は「南相木三川への道」とされていますから、 ちょっと↑に示した地図では、3番目、いちばん下の南回りルートです。 ここを最新の地理院地図で見ると、鞍部の標高は1700mをわずかに下回る程度です。 破線で示されている徒歩道は最低鞍部の北西水平30mほどのところを通っていて、経路の最高標高は1703mです。 この峠は大正・昭和初期の五万図で標高1705mとはっきり示されているので、 以降本稿ではここを「1705m峠」と呼ぶことにします。 須田さんが一緒に歩かれたのは群馬大学の方々…群馬のヤマのオーソリティです。 いまから50年近く前の1969年にはすでに、 群馬の山に一番詳しい方々がこの1705m峠をこれい峠だと認識していたということになります。 この疑問についても、 このページについてメッセージをいただいた大ベテランさんがいくつものヒントを出してくださいました。 大正期に活躍した登山家の方々の発表作品と、それらがどう解釈されたかを見ていく必要があるだろう、と。 ラジオ小僧→アマチュア無線家→山に登れば遠くまで電波が飛ぶ→無線機持ってバイクで山に行こう→峠越えのおもしろさにハマる、 という機序でここまできた私は、正式な登山の訓練を受けたことはなく、 また山の名著の数々も、ほとんどまったく読んだことはありません。 「大家の方々」も「必読の名著」も、いずれも初めて耳にするものばかり。 うひゃー、いかに不勉強のままだったのかを反省。 |
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この書籍の名も原 全教氏の名前もそこここで聞いていましたが、秩父は私のテリトリーではないし…と思っていました。
が、空前絶後の名著とさえいわれるこの書を、お読みなさい、と、別の大ベテランさんが送ってくださいました。
若輩者へのご指導、ほんとうに感謝の意に堪えません。 題は「奥秩父」としながらも、原 全教氏は奥秩父の北に位置する西上州や西の信州側も精力的に歩かれ、 この書を書かれました。 その内容たるや…質・量ともにこれは本当にすごい! 空前絶後、が決して大袈裟ではないことがすぐにわかりました。 本篇・続篇の2巻からなるこの大著ですが、これい峠を直接的に記述したところはありませんでした。 唯一触れられているところとして、次の記述があります。 「奥秩父 続篇」金峯山と千曲川 - 本流と支流と尾根 - 二本木ノ澤その他 (p485) 本流右岸の尾根
ここは三国峠から西北西に延びる上信国境の稜線についての解説であり、 蟻ヶ峠 の説明です。 これい峠を説明しているわけではありません。 蟻ヶ峠はこれい峠からみて辰巳の方角、つまり南東の方角だと信府統記には書かれている。 ならばこれい峠は蟻ヶ峠からみて北西の方向にあるはずだ。 1705m峠は蟻ヶ峠からぴったり北西の方向にあります。 しかし本書のここの説明ではどの程度の距離のところにとは書かれていないわけで、 だから1705m峠がこれい峠だと確定することはできないでしょう。 すでに書いたように信府統記の記述は行程距離は正確そうですが方角は怪しく思えますので、 信憑性には大きな疑問あり。 結局、この文ではこれい峠がどこだとは読めないと思います。 ともかくも「コレイ峠については機をみて述べる。」 とあるので、ワクワクしてこの大書の他のページを読みましたが、記述は見つかりませんでした。 「奥秩父 続篇」のあとに出された書物に書かれているのでしょう。 「奥秩父 続篇」には各所の地図が掲載されていて、沢や峯などが、 いまや他のどの文献にも見られない地名とともに詳細に示されています。 地図だけでもすごい。 で、その一部拡大が右図。 例の1705m峠は、上州側には道がなく、信州南相木村側は「廃徑」。 この峠のルートは江戸期・明治期にはごく細い道としてあったにしても、 昭和初期までには使われなくなっていたのだ、 ということを示しています。 そしてそこに、「会所」との地名。 さあ、 こんどはこっちの続き か。 この地図には (右で引用した部分には見えていませんが) 栂峠がはっきりと書かれています。 明治40年の地形図には栂峠と掲載されているのですから、当然のこと。 私の「これい峠がいつしか栂峠と呼ばれるようになった」説にご意見を下さった大ベテランさんは、 「栂峠の名称は明治後期に陸地測量部が地図作成の際に(勝手に)つけたものなのだろう」 と推測されておられました。 多くの古地図にたいてい掲載されていたこれい峠、 それを葬り去ったのは陸地測量部、だったのでしょうか? |
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原 全教氏は、大正期から昭和初期にかけて、奥秩父にとどまらず十石峠方面、北相木と栂峠も歩かれ、調査されています。
先駆者の探検であった氏の山行きは、ガイドブックや誰かのブログを参照してただ「行ってきました」であるはずがなく、
それぞれの地元の多くの方から地名やその地域の歴史やいろいろなことを伺いながらの調査旅行でした。 にもかかわらずこれい峠の位置を誤って解釈されたままだったということは、 原 全教氏が北相木や栂峠、あるいは上野村を訪れた際に、これい峠の名を口にした人は一人もいなかった 、ということになります。 大正~昭和初期にだれもこれい峠を言及しなかったということは、 明治中期にはすでに土地の人にそう呼ばれなくなっていたということでしょう。 であれば、陸地測量部が明治末期に現地測量を行った際にもその名が出てこなかったというのも自然に思えます。 お地蔵さまがあって、明治期に入っても交通路として利用されていた峠の名が地元でも伝えられなかったというのは、 これは不思議なことです。 なぜ「これい峠」の名は地元の人に忘れられてしまったのか? さらには、ひょっとして 江戸後期にはすでに人々に「これい峠」とは呼ばれなくなっていた とか? うわあ、これはたぶん永遠に証明できないんじゃないのかな。 |
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2020年03月、高畑棟材著「山を行く」をようやく手に入れることができました。
昭和5年に刊行されたこの本、本文内にはこれい峠の言及がありませんでしたが、
巻末 ほんとうに最後の最後に収録されている『神流川雑藁』に、問題のステートメントがありました。 「山を行く」高畑 棟材 昭和5年 (1930年)
また序乍らコレイ峠といふのは、『信府統記』に「これい峠。峰通國境十石峠ヨリ辰巳ノ方上野國ニテモ同名」 と出てゐるものであつて、秩父の古禮山の様にサハギバウシ(コレツパ又は山ガンピョウとも言ふ由) の方言「コレ」から導かれたとかいふ稱呼であるや否やは調べ漏らした。 十石峠圖幅で言ふと、群馬縣多野郡上野村字中ノ澤から、長野縣南佐久郡南相木村三川に到る小径が、 上信國境の凹所(獨立標高點一七〇五米)を踰えてゐる其の凹所に附けられた峠名であるが、 現今では殆ど荒果ててゐる由を、 大島氏は「小倉山」で「現今通行者絶え路痕なき程なり云々」と述べて居られる。 私も夫れと同じ意味の話を濱平の旅舎で耳にした。 ここで高畑棟材氏はこれい峠を1705峠に決定的に同定しました。 これが以降2013年にわたしが異議を唱えこのページを書くまで、 83年間もの間山岳関係者の共通理解となったのです。 高畑棟材氏は奥上州のパイオニアとして現地を歩かれただけではなく、 とても多くの文献や地誌・絵図類を参照され、 また現地の人々の話を可能な限り収集されました。 その努力の結果です、もとより責めることなどできようはずがありません。 氏は自ら 以上で、正徳の古繪圖に基いた上州神流川水源地に於ける山谷の概況は、一先づ述べ終つたが、 みづから實査せぬ箇所も多いこと故、思違ひや臆斷も少なくないであらうと思ふ。 同好の士の御叱正を得れば幸である。 とお書きです。 氏の志をここにほんのわずかでも継ぐことができると良いなと思います。 |
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2016年9月に「これい峠は上野村白井と北相木村白岩を結ぶ道が上信国境を越える峠であり、現在では栂峠と呼ばれている」
と確信してから はや5年が経過した2021年07月、
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
が特別コンテンツと称して 『長野県町村誌』と明治初期の村絵図・地図 の公開を始めました。 さっそく北相木村のページを読んでみると、 いきなりずばりの記載がありました! 長野縣町村誌は2014年2月に臼田の図書館いに行ったときに手に取っていたのになあ、 なんでそのときに気づかなかったんだろう。 この記述ではこれい峠は 「古來峠」 と表記されていますね。 掲載されている「長野懸町村誌」は昭和60年の復刻版で、 オリジナルの発行は昭和11年 (1936年) です。 ということは、高畑棟材氏が「神流川雑藁」をお書きになった昭和3年にはこの書物はまだ発行されていなかったわけです。 でも、原全教氏の「多摩・秩父・大菩薩」(昭和16年) 、さらには「奥秩父研究」(昭和34年) のときには入手可能だったのでは? しかしどうやらオリジナルの「長野懸町村誌」は印刷数が少なかったようですから、 帝都在住の登山家の手には届かなかったのでしょう。 ところでそうなると次の疑問は、なぜ北相木村町村誌では「栂峠」ではなくて「古來峠」と書かれているのか。 陸地測量部五万図「十石峠」は大正元年測図・昭和4年要部修正測図で、昭和7年には発行されています。 高畑棟材氏も陸地測量部五万図を参照して奥上州を歩かれており、そのときは大正元年測図の初版の地図だったはずで、 そしてそこには「栂峠」と記載されています。 昭和に入るころには「これい峠」の名が廃れて「栂峠」とひろく呼び習わされていた、 というのであれば、北相木村の「町村誌」にもそのように書かれるはずなのに。 やはり地元ではすくなくとも昭和ひと桁年代までは「これい峠」と呼ばれていて、 陸地測量部が名付けた「栂峠」は、地元にはなじみのない名前だった、 とするのが筋が通っていそうです。 |
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2003年に刊行された「南相木村誌 南相木の民俗習俗」(南相木村教育委員会) に
「信州国大絵図 村保存図絵」が掲載されており、
それには十石峠と蟻ヶ峰の間にしっかりコレイ峠が示されています。
その道の経路はしっかり南相木を経由しています。 これは「これい峠 = 栂峠」説が否定される証拠かも? とびっくりしたのですが、 よくよく見てみると、 ので、「これい峠は北相木の道」説を否定しないし、 「これい峠は1705m峠ではない」説を支持しています。 この絵図の最大の問題は、北相木の道と南相木の道がどういう経路で合流していたのか? という点です。 この絵図では現在の南相村の村内東部分の地形描写は甚だ不正確だ、といえるでしょう。 北に栗生川が、南に南相木川が流れ、その間を峰雄山が隔てているというトポロジーを表現できていません。 現在の栗生坂と栗生峠の接続関係が地図作成者に正しく認識されていなかったか、 ことによると両者が混同されてしまっていた可能性もあります。 この地図表現は 天保6年(1835年)の「信濃國大繪圖」 とほぼ同じです。 南相木村保存の信州国大絵図はおそらく信濃國大絵図と同じ1830年代のもので、 もしかしたら信濃國大絵圖をベースに作成されたのかもしれません。 信濃國全体を描こうとする全県地図において、 言葉は悪いですが地方の小さな村の、 さらに最奥部の描写表現が正確でなかったとしても奇妙なことではないでしょう。 |
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「南相木村誌 南相木の民俗習俗」で驚いたのは、これい峠の記述があったこと。
それも、江戸時代の古絵図と信府統記の記述からこれい峠の同定を試みています。
出所、出典、読み取りの違いにより事象が後世に正しく伝わらないことがある。
御巣鷹トンネル(新)上の上州白井道の峠名もそのひとつである。 語り伝えがまちまちの上、廃道に近い現況では、これと決めかねていた。 筆者さんはどうやら、御巣鷹トンネル工事の関連調査の一環として南相木を調査し、 そのとき1705m峠の名称を調べ直したものと読めます。 そこで「これい峠」「コレイ峠」の固有名を得たものの、 その確からしさには疑問を感じておられたようです。 南相木ダムの建設、あるいは着工前の事前学術調査の一環として文献調査が行われたのだとすれば、 私がこれい峠について調べ始めた2013年よりも15年も前にこれい峠の謎に取り組んだ方がいらっしゃった、 ということになります。 |
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結局、「南相木村誌 南相木の民俗習俗」では1705m峠が「これい峠」として記載されてしまいました。
高畑棟材氏が誤って同定し、原全教氏が追認し、
戦後の群馬の山岳界の標準解釈となった「これい峠 = 1705m峠」は、
平成中期に発行された南相木村誌という公式な書物でさらに確固たる解釈となったといってもよさそうです。 この書物ではこれい峠の標高は1700mと示されています。 昭和27年応急修正の五万図まではこの峠には「1705」の標高が明記されていましたが、 昭和50年図では標高の記載はなくなり、 現代の国土地理院レーザー測量APIでは鞍部の標高は1698.4mと読めます。 ずみ岩の標高も、 昭和52年発行図では西端の標高が示されていて1771m、 平成2年発行図では中央部ピークの標高が1789.2m、 現在2026年の地理院地図では中央部ピークが1789.4mと示されています。 測量技術の発達とともに標高の数字は変わってきてしまうものなのですね。 このページには「コレイ峠へ」と題された写真が掲載されていますが、 撮影された「甚平屋敷」というのは大黒沢から登り茶屋ノ平に向かう途中。 この区間は峠越え交通だけではなくて古くからの山稼ぎに使われた道でしょうから、 江戸期は頻繁な行き来があったのでしょうし、 明治初期に峠交通が途絶えた後も長く利用されていたのでしょう。 しかし茶屋ノ平から会所の峠までの道は、 昭和10年の原全教氏「奥秩父 全2巻」でははっきりと「廃径」と示されていました。 昭和初期にはすでに峠までの踏跡はもはや残っていなかったはずです。 ちなみに昭和63年修正・平成2年発行の五万図では、 「茶屋ノ平」の位置が誤って記載されています。 地理院地図の制作・改訂の際に、 かならずしもその土地に詳しい人のレビューが入るというわけでもないようです。 |
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この「南相木村紙 南相木の民俗・習俗」で新たに導入されてしまった誤りは、 「石仏」と「会所」を同一地点扱いしている ことです。 同誌に掲載されている「『これい峠』検証探査より」の写真にそれを見ることができます。 現在の地理院地図では固有名は記載されていないものの標高1916m三角点が「石仏の頭」で、 「会所」は1705m峠の名称です (もっともこれらは原全教氏の書物が初出で、 もし氏が当時の現地聞き取りの際に勘違いなどされていたのならそれがそのまま固定してしまったということになりますけれど。) 結局「南相木村紙 南相木の民俗・習俗」においては、 高畑棟材氏の誤った解釈 「これい峠 = 1705峠」を採用してしまったため、 「それでは『会所』とはどこだ?」となり、 訝しく思いながら「会所 = 石仏の頭」としたのでしょう。 正解は簡単で、「会所 = 1705m峠」で、「これい峠 = 栂峠」なわけですね。 これい峠は南相木にはなく、南相木から遠望することもできません。 |
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上掲「『これい峠』検証探査より」の写真の撮影地点を特定してみました。
南相木ダムの建設が始まってから (= 1995年以降) 撮影されたものですね。
「茶屋の平」の注記の位置は、もうすこし右の小さなピークあたりが正しそうです。 |
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という次第で、
2003年発行の本書「南相木村誌 南相木の民俗と習俗」ではこれい峠は南相木の峠としてしっかり地図に明記されてしまいました。 しかしこれは「これい峠」という固有名称が誤っているというだけで、 「古くから1705m峠を通過する峰越交通ルートがあり、長野県南相木の茶屋の平と群馬県上野村の白井を結んでいた」 ということは間違っていません。 その峠は「會所」と呼ばれていた、と書き換えればすべてすっきりします。 |
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ほとんどの市町村が市町村史誌を刊行したのが昭和50年代後半。
バブル景気の影響もあったのでしょうね。
平成も中盤を過ぎてから刊行された市町村誌というのは案外に少なく、
南相木村誌はそんな例外です。
南相木ダムの固定資産税で村が潤ったからなのでしょうが、
故郷の文化のために良いお金の使い方だと思います。
新しい刊行で、カラー印刷、写真も多く、
昭和50年代の市町村誌に比べて記載内容も洗練されています。 さて本書では 「第2節 峠と街道」のチャプター で南相木の交通路について記載されています。 冒頭では、江戸期に南相木と上州甘楽郡楢原村との結びつきがあったことをエビデンスを交えて紹介しており、 また南相木の峠を6つ列挙しています。 しかし、そのなかにこれい峠は出てきません。 前述した2003年の「南相木村誌 南相木の民俗習俗」に掲載された「南相木の峠」の図は そのままの形で本書にも引用掲載されていて、 したがって1705m峠に「これい峠」とはっきり書かれているのですが、 しかし本文内には出てきません。 これはとても奇妙なこと。 本書では天保國絵圖を参照して調査したことが言及されているのですが、 それなら天保國絵圖にはっきりと描かれた「これい峠」に言及していないのはどういうわけなのでしょう。 天保信濃國絵圖 を見れば、これい峠は北相木と上州楢原村をつなぐ峠であって、 南相木には直接つながっていないことが直ちに見て取れます。 これい峠を経由して楢原村に行くには、 北相木を経由する必要があったのです。 そして、そうであれば、 2003年刊行の「南相木村誌 南相木の民俗習俗」に掲載された「南相木の峠」の図のこれい峠の位置と矛盾する。 本誌を編纂するときに本当に天保國絵圖を閲覧したのであれば、 おそらくそれに気づいたことでしょう。 だから、本文中に「これい峠」を明記しなかった。 あるいは、本文中に「これい峠」を明記しなかったことはすなわち、 南相木村誌歴史編刊行会の方々が「これい峠は南相木の峠ではない」ことを認識されたのかもしれません。 ところで、高畑棟材氏がこれい峠を誤って1705m峠に同定されたのは昭和3年、 その認識が原全教氏の大著によって広まったのが昭和34年。 なので、昭和34年以前の南相木の人は「これい峠」の名を聞いたこともなかったはずだし、 その時代には1704m峠の道は完全に廃道になっていて、 歩かれることもなくなっていました。 村にまったく何の言い伝えも記録も残っていない。 東京在住の登山家だけが、そこはこれい峠だと書いている・・・・ やはりどこか信じられないところがあったのかもしれません。 ともあれ、江戸期には南相木と楢原村とで峠を越えた交流がしっかり存在したことが本書でよくわかります。 すると疑問は、そのとき南相木の人々は1705m峠の「會所」を越えたのか、 それともいったん北相木に出てこれい峠 ― 現代でいう栂峠を越えたのか。 平成29年の南相木村誌 歴史編では北相木に出てぶどう峠経由あるいは栂峠経由であったろうと記述していますが、 まだ研究の余地はありそうです。 1705m峠「會所」を通じての地域間交通はどのようなものだったのだろう。 |
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