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Korei Toge Pass

これい峠

    Korei Toge Pass always appeared on the Gunma prefecture map of Edo period and early Meiji period (until year 1880) but none in later maps. This page attempts to locate the ancient Korei Toge Pass by referring to historic maps, reaching to a hypothesis: "Korei Toge is an old name of Tsuga Toge Pass." This is a very ambitious hypothesis because Korei Toge Pass is considered as a pass at quite different location, indicated by a highly appraised, inviolable book written by Mr. Zenkyo Hara in year 1941. Now a fearless outsider is trying to undestand how this misconception was made, which has not been challenged for 75 years.


これい峠

    長い間の西上州の住民でありながら、須田 茂さんの「群馬の峠」を読むまで「これい峠」のことは聞いたことがありませんでした。 はたしてこれい峠ってどこなんだろう。 ウェブをサーチすると、関連情報量は極めて少なく、 相当前に峠としての価値も機能も失われ、近年これい峠を目指した人はその道をみつけられなかったとのこと。 さらにはそれが実際のところ正確にどこであるのかも不確かになっているようです。
    これい峠は西上州の上信国境の峠。 そんな様子では短距離ハイクしかできない私が到達できる場所ではありません。 ので、せめて地図を眺めて、ありし日のこれい峠を思い巡らせてみることにします。


天保國絵圖 上野國 (天保9年 1838年)

    1838年にシリーズが完成した「天保國絵圖」の「上野国」をみると、これい峠が描かれています。
此、これい峠。嶺通国境。信濃国にても同名。
楢原村之内白井より信濃国相木村迄五里。
此処より拾石峠迄之間山國境不相知。
とあります。

    地図に描かれた道筋は、白井関を通り過ぎた後分岐し、北への分岐は十石峠へ、南への分岐がこれい峠に達します。

    白井関を通った後で十石峠への道から南に分岐しているとすれば、栂峠のあたりといえそうです。 もう少し南に下って現代のぶどう峠のあたりの鞍部越えを狙うなら、白井関ですぐに十石道から分かれ、 三岐のあたりから北沢沿いに登るか、もう少し行って中ノ沢から日向沢沿いに登るかというルートが自然に思えます。 十石峠道と分かれるのが白井関を通過した後であるならば、 ぶどう峠近辺の鞍部というのはすこし不自然に思えます。 ひょっとして、

これい峠=栂峠

だったりするのでしょうか。

    栂峠もぶどう峠も、峠を越えれば相木川沿いに降り、長野県北相木村に達します。 このあたりにあった峠ならば、

これい峠は北相木への道だった

はずです。


[Original] 国立公文書館デジタルアーカイブ

上野國輿地全圖 (天保11年 1840年)"

    おや、こちらではヨレイ峠となっているぞ。 記事は

此ヨレイ峠国境信州ニテ同名
此処ヨリ拾石峠マテ山國境不知
白井ヨリ相木エ五リ
とあり、天保國絵圖と同じ内容。 しかしこちらでは、白井関ですぐに十石道から分かれて南に向かい、"寒行"・"中沢"の集落を抜けています。

    "寒行"は、現在の地図で「神行橋」があるあたりでしょう。 ここは神流川沿いで、三岐で神流川から日向沢が北に分岐する手前。 三岐から日向沢沿いに進めば中ノ沢です。 いったん日向沢沿いに進んで中ノ沢集落を通っているとなると、現在の栂峠に向かうのは理不尽だから、 これい峠 ≠ 栂峠 ですね。 であれば、現在のぶどう峠と似たような位置だったのだろうか。 ぶどう峠に近いのであれば、峠を越えれば北相木に降ります。

これい峠は北相木への道だった

というのは同じ。


[Original]


富士見十三州輿地全圖 (天保14年 1843年)

    今度は、白井関ですぐに十石道と別れていますが、中ノ沢集落は通らず、そのすこし北を通っています。 北沢沿いに入って、栂峠あたりを目指しているのだろうか。

    いっぽう、峠を降りると信州の"白岩"を通過しています。 白岩は、北相木の相木川北岸の集落です。 現在の栂峠あるいはぶどう峠を越えると、白岩を通過します。 いずれの位置にせよ

これい峠は北相木に抜ける道

です。

    さらによく見ると、峠を越えてから南に分岐して、"尾倉山"の西を南下して南相木の"三河田"を通るルートも描かれています。 実際には、御座山の西稜線を越えて現在の三川のあたりに降りるのはなにか無理があります。 このへんは作図の不正確さによるものなのでしょう。

    これい峠を越えて南相木に行くルートもあったけれど、峠の位置としては

これい峠は栂峠あるいはぶどう峠のあたりにあった

といえそうです。


[Original]


関東七州大繪圖 (年代不詳)

    こちらは国会図書館蔵ですが年代が不明。 天保期か、その後か? 素人には江戸中後期だろうとくらいしか見当がつきません。 すっきりしたカートグラフィです。

    これい峠はまぎれもなく、白井関を通過した後で十石道と分岐しています。 これはほぼ間違いなさそうです。

    この地図では、いままで出てきていた磯峠と横見峠がありません。 この地図が描かれた頃にはこれら2つの峠は重要性を失い始めていたということなのでしょうか。 それとも単に、重要な道だけが描かれたものなのか。 もし重要な道だけが描かれたというのであれば、 これい峠は十石峠と同様に重要な道だったということになります。


[Original] 国立国会図書館デジタル化資料 関東七州大繪圖


群馬県管内上野國図 (明治12年 1879年)

    時代は40年ほど進んで明治時代。 お、さすがに進歩したな。 幼稚園児が描くような山の地図とは違って、地形表現が正確になってきた。

    と思いきや、とんでもない!! コレイ峠は三国山の東に描かれているじゃないか!! これじゃあ秩父に行こうと思ってコレイ峠を越えたらそこは長野だった、 ということになるぞ。

    それに、「拾石峠(十石峠)」のはずが、「石峠」になってるぞ。 拾うと捨てるじゃ正反対だ。 作成者は有名な十石峠を知らなかったわけだから、 このあたりは別の地図を参照して書き、そのあとピアレビューも行われなかったのでしょう。 神流川源流の流れが省略されているし、なにしろこのあたりの距離感がめちゃくちゃです。

    いっぽう、明治2年(1869年)01月20日の大政官布告で江戸時代の関所は廃止されていたから、明治12年のこの地図で「白井」が描かれていないのは不思議ではありません。


[Original]


改正銅鐫上野國全図 (明治13年 1880)

    こちらは同じく明治初期。 県境の形状が記憶だけで書いたようないい加減さであるところを見ると上の「群馬県管内上野國圖」に対してずっと幼稚なカートグラフィに見えますが、 神流川源流域の表現はずっと正確です。

    この地図によると、これい峠への道は白井を通過してからしばらく一緒、途中で南に分岐して北相木に出ています。 注記にはっきりと「北相木へ出ル」と書かれています。 間違いなく

これい峠は北相木への道だった

といえます。し、この図では

これい峠 = 栂峠

説が復活してきます。

    この地図でも「捨石峠」です。 地図の作成は従前のものを参照するのがやはり基本だったのでしょうね。

    さて、この地図では十石峠の北に"新道越"が描かれています。 現在の大上峠のことを指しているのでしょうか?


[Original]: Berkekey Library, University of California


これい峠 = 栂峠 説

    さてここまで見てきて、これい峠についてほぼ確実にいえることは、

  • 上野村の白井から出て、
  • 北相木に抜ける

  • 峠道だということです。 可能性としては

  • 上野村白井から十石峠道、途中で分岐して天望山付近を通過し南西に向かう (= 栂峠そのもの)
  • 上野村三岐から北沢に沿ってマムシ岳の北側を西に登ってゆく (= 十石道とは別ルートだが栂峠そのもの)
  • 上野村中ノ沢を通り日向沢に沿ってマムシ岳の南側を西に登ってゆく (= ぶどう峠に近い経路) (現代の地図では道の痕跡は見えないが)

  • なのではないかと思われます。 この中では

    白井関を抜けてしばらくは十石峠と同じ道で、途中から南に分岐し国境稜線に向かう

    ルートがいちばんよく出てきています。 これい峠を通ってさらに南相木まで行く追加ルートもあったようだけれど、 いずれにしても

    これい峠は北相木への道

    なのです。

        いっぽうで不思議なのは、いままで見てきた地図には栂峠の記載がないこと。 ぶどう峠は大正期に軍の演習のために開かれた道だからそれ以前の地図に掲載がないのは当然としても、栂峠は峠上に古いお地蔵様が祀られていますし、 徒歩交通時代の峠なのは間違いありません。 であれば、天保年間や明治初期の地図に掲載されていて不思議ではないのに。

        須田 茂さんの「群馬の峠」では、栂峠は上野村白井と北相木村の白岩・三寸木を結ぶとあります。 これは富士見十三州輿地全図にあるコレイ峠と同じルート。 やはり

    これい峠 = 栂峠

    なんじゃないのかな。 同書には大正15年の登山記事に栂峠が触れられていることが書かれているので、 なんらかの理由で明治中盤から大正にかけて「これい峠」の名称が「栂峠」に変わったのではないかと。

        あるいは、同一峠の別名というのもよくあるケース。 上野国からはこれい峠と呼ばれ、信濃国からは栂峠と呼ばれていたという可能性はないでしょうか。 明治中盤以降は群馬側の道は使われなくなったためこれい峠の表記は姿を消し、栂峠の名称だけが残ったという説です。

        しかしこれは大胆な仮説です。 なぜなら須田 茂さんの「群馬の峠」では、

    これい峠は上野村中ノ沢を出て長野県 南相木村三川 に至る

    とされているからです。



    それじゃここはどこ?

        現代の国土地理院の地形図を見ると、上野村中ノ沢を基点にして沢沿いから離れ南西に向かい、品塩山の西側を通り、 県境の峠を越えて南相木の大黒沢に抜ける破線道が描かれています(右図で青色のルート)。 これが重大なポイント。 なぜならこのルートがこれい峠であると解釈されている例があるようなのです。

        地形図の峠に名称は入っていないのですが、 ルート上に「会所」や「茶屋の平」の地名があるから、古来の上信交通ルートだったのは間違いないと思います。 しかし文献では 「ここが昔これい峠と呼ばれていた」という確証は明示されていない のです。 ここはこれい峠ではないんじゃないのかなあ。

        この茶屋ノ平に出る峠がこれい峠でなかったのならば、では何と呼ばれていたのだろう? ひょっとしてここが「蟻ヶ峠」なのではないのかな? 古い地図を見ると、天保の地図3つにおいて蟻ヶ峠は仲ノ沢本谷の先に図示されています。 これは現代の地形図に破線道として描かれているこの峠の位置に合うように思えます。
        でも、やはりそんなことはないようです。 茶屋ノ平ルートの峠と蟻か峠については、蟻ヶ峠ページでディスカッションを続けます。

        なお南相木川の地図を見ていて、昭文社Super Mapple Digital 13DLでは「茶屋ノ平」の位置が西に700mほどずれて書かれていることにも気がつきました。 最新バージョンの電子マップだからといって鵜呑みにしてはいけないようです。


    上州甘樂郡山中領四ヶ所御林繪圖

        本腰を入れて調査を開始して3日目、とうとう見つけました。 これ以上に詳細に描かれた地図はもはやないものと思います。 この地図は、「上野村史 上野村の歴史」の冒頭カラーの最初のページにある絵図。 上野村内の複数個所の御巣鷹山の配置、集落、沢そして道が詳細に掲載されています。

        書籍ページではとても小さいので老眼の目では読めないのですが、拡大してみると・・・ 小鈴峠 があります!!

        小鈴峠への道は楢原村白井関 (現 上野村白井) を出て、しばらくは十石道を進み、十石峠の手前で南西に分岐して進んだ先の稜線上に描かれています。 これで、近年の認識となりつつある

    「これい峠は上野村中ノ沢と南相木 三川を結ぶ峠」は誤り

    であることが確実になりました。

    「これい峠は上野村 白井と北相木 白岩を結ぶ峠」

    であり、

    「これい峠は十石峠のすぐ南で、国境稜線上にある」

    のです。 そしておそらく、これい峠への道が十石道から分岐する地点は古くから水の戸と呼ばれている地点であり、

    「これい峠は栂峠と同じルート上にある」

    のです。




    これい峠と栂峠が別の峠だとしたら

        これい峠は十石峠のすぐ南で、国境稜線上にあり、栂峠と同一のルート上にあることまでは確定しましたが、 だからといってこれい峠と栂峠が同一地点と結論することはできません。 なにしろ天保期・明治期の地図には栂峠を描いたものがまったくないのですから。

        これい峠のルートは、十石道から南西に分岐して国境の稜線に上がり、つぎに道は稜線伝いに南に進むのでしょう。 この先北相木に下りるには、栂峠を経由して栂峠沢沿いに下りて三寸木に出るか、 あるいは栂峠までは南下せずに、たとえばひょっとすると稜線上の1622mピークの南稜線あたりから寄沢川沿いに白岩に降りていたのかもしれません (そんなルートは現代の地形図には書かれていませんが)。

        どちらの場合であっても、経路上の最高地点は稜線上にある1622mピークの東を巻くあたりで、1590m程度になります。 これは栂峠の標高1570mよりも高いですから、 このあたりを峠と呼ぶのが妥当なところでしょう。 あるいはそこからちょっと北の部分は地形的に鞍部になっていますので、 こちらを峠と呼ぶのが自然なのかもしれません。

        以上を考えあわせ、 これい峠と栂峠が別の峠だとしたら、 これい峠は右図の場所だと確信することにします。




    これい峠と栂峠は同じ峠なのか

        天保6年(1835年)の「信濃國大繪圖」(「古地図で見る信州」サイト から) を見ると、北相木の東に白岩を通過する"これい峠"があり、"上州白井道"とあります。 これはいままで見てきた観察に合いますし、 これい峠は信州側でもそう呼ばれていたと判断できます。

        明治初期の「北相木村繪圖略系」(信州デジくら から) を見ると、村の東に峠があり「上野國北甘楽郡楢原・大仁田道」と描かれています。 峠名はありません。 この峠道は三寸木の東の沢伝いに北上しているので、この沢は今の栂峠川でしょう。 やはりこの峠は栂峠であると思われます。 「これい峠と栂峠が別の峠だとしたら、これい峠から寄沢沿いに白岩に降りるルートがあったのかもしれない」と前述しましたが、 寄沢沿いの道は峠を越えてはいなかったようです。 信州デジくらでは北相木村村史を読むこともできますが、それには峠の記述はありません。 ただ村の東の道を行けば楢原に行く、とあるだけ。

        北相木の地図にはまた、木次原の奥に進む細い道があり、ひとつの分岐は国境近くまで伸びています。 これはいまのぶどう峠の前駆的なルートでしょう。

        とにかく、どちらの地図にも、またいままで見てきたどの地図でも、北相木と楢原村を結ぶ道筋は一つしか描かれていません。 道筋が1本しかないなら、その通過ルートに「これい峠」と「栂峠」の2つのネームド・プレイスをもつ要請はなさそうに思われます。 道筋が2本あったのなら、出発地と目的地が同じであれば労力のかかるほうの道はすぐに廃れそうなものです。 当時の峠はレジャーのための目的地ではなくて必要に迫られて苦しい思いをしながらやむなく通った道なのですから。

  • 北相木と楢原村を結ぶ道筋は一つしか地図に描かれていない。
  • これい峠が江戸期から地図に掲載されている古道なのに現地が確認できない。
  • 栂峠は現地にお地藏さまがある古道なのに栂峠の名称が地図には掲載されていない。

  •     これらのことからは、やはり当初の仮説

    これい峠は栂峠と同じ峠である

    を棄却することができません。

        さて、この仮説を採用するのであれば、次の疑問は:

  • 「栂峠」の名称はいつから使われるようになったのか?

  •     大正元年測量・昭和4年修正の五万図 (「地形図のたのしみ」から) では、「栂峠」の名称がみられます。 いままで見てきた地図等からすると、「栂峠」名称の出現は明治20年前後以降で、 大正期までには出現しているということになります。 このころにはすでに上野村―北相木間の商流の重要性は低下していたはずで、 となれば地域間経済流通とは異なるなんらかの理由から出てきたものなのでしょうか。

        もうひとつの疑問は、

  • 栂峠の石造物等に「これい」「小鈴」等の文字は残っていないのだろうか?

  •     これは現地に赴くか、栂峠の石造物の詳細な写真等がどこかにないか探してみることになりそうです。

        明治11年に神流川に沿って鬼石へ出る新道車道が整備され、 明治23年(1890年)には新町と楢原村との間に運送馬車が通るようになりました。 これにより上野村への物資流通は中里・万場・鬼石方面からのものが主流になり、 冬季には通行困難となる山岳峠道への依存度は大きく低下します。 十石峠に比べ利便性の劣るこれい峠は急速に廃れていったとしても不思議ではありません。 大正の頃にはほとんど利用されなくなっていたのでしょう。


    [Original] 古地図でみる信州 から 信濃國大繪圖


    [Original] 信州デジくら 北相木村村絵図略系


    これい峠に行ってみよう

        今までの考察からは、これい峠は栂峠そのものであるか、 あるいは栂峠から稜線を北に上がった、 水の戸からの登り道が稜線に接する場所のどちらかです。 今は近くまで林道が伸びているようですが、ゲートで閉鎖されていたりしてモーターサイクルでは到達できないようだし、 栂峠には一度も行ったことはなかったのです。 ハスラー50 で奥多野に足を運ぶようになって35年近いのに。
        でもここまで調べたんだし、やはり実際に行ってみるべきだな。 これい峠がどちらの場所であれ。 そこで、ヨメを道連れに、栂峠に行くことにしました。

        栂峠を目指すなら、基本的には4つのルートがあります。

  • 上野村の十石峠道を水の戸まで車で行き、そこから山道を歩く (古来のこれい峠道)。
  • 十石峠から稜線を南に歩く。
  • 十石峠の信州側の新三郎沢からの道を歩く。
  • 北相木の栂峠林道の終点まで車で行き、そこから山道を歩く。

  •     水の戸から登るのが古来伝統のコースですが、 夫婦揃って普段はヒッキーな生活をしているので、 本格的な登山はできません。 ので、車両は ターボ・ファルコン号 を使い、距離的に一番近い栂峠林道ルートをとることにしました。

        栂峠入口の標識のある登山道を登り始めると、すぐに斜面を真正面で登っていく急坂になりました。 体力不足・高血圧の身にこれはきつい!! あえぎあえぎ、休み休み登って、東電の鉄塔ピークに到達。 この道は基本的に東電の鉄塔保守のための道であり、地形図に描かれた登山道とはかなり違います。 心臓発作で山の中で死ぬのはいやだから、この先もこんな道だったら撤退しようと思いましたが、 鉄塔ピークの先は引き籠り夫婦の週末ハイキングにちょうどいい、気持ちの良い広い道。 峠の近くは鹿のフンだらけの明るい林の中を抜けるルートですが、 それでもNV-U37の地形図モードの助けを借りて、栂峠に到着。 おお、これが栂峠のお地蔵さまだ。 初めまして、ここに来るのに35年もかかってしまいました。

        かわいらしいお地蔵様の背面にはなにやら文字が掘ってあるようでしたが、 風化が進んでいて読むことができません。 拓本を取るのも良くないだろうと思いましたし、お地蔵様からこれい峠のヒントを得ることはできませんでした。

        つぎは水の戸からの登りが合流する地点まで、カウベルをコロンコロン鳴らしながらのんびりと稜線をハイク。 稜線には1車線幅の林道が走っていて、ガードレールやカーブミラーも部分的に設置されているのですが、 維持放棄されて数年は経つようで、 複数箇所で崩落していて四輪車での走行は無理。 さらには倒木も数ヵ所あり、最初からそのつもりで準備したアタックチームでない限りモーターサイクルでも通過できません。 実際、新しいタイヤ跡は皆無でした。

        さて、地図で見てここがこれい峠だったのではなかろうかと思う地点は、 水の戸からの登り道が国境稜線に接する古い切通しの鞍部。 さらに今では新三郎沢からの登りの道も合流し、十石峠への稜線の道と合わせ四分岐になっています。 白井関を通って信州を目指し、水の戸を分岐して山中領最深部の薄暗くて長く苦しい山道を登りきったあとに国境稜線に到達して見晴らしがぱあっと広がったとしたら、 誰しも感慨を覚えるでしょう。 そこからさらに平坦に近い稜線を歩いた先の、北相木に降り始める地点である栂峠には、それほどのインパクトがあったとは思えません。 峠の呼び名とは登り切った地点につけられるものであって、下り始める地点につけられるものではないのだろうと感じられました。

        「道筋が1本しかないなら、その通過ルートに2つのネームド・プレイスをもつ要請はなさそうに思われる」と前述したけれど、 「楢原村水の戸からの登りが稜線に到達する地点」と「北相木白岩からの登りが稜線に到達する地点」はそれぞれ立派に峠と呼ばれる資格を持った地点であり、 その二つの峠が稜線で結ばれていたというわけです。 この場合、上州側からの峠はこれい峠と呼ばれ、信州側からの峠は栂峠と呼ばれていたとして不思議ではありませんし、 信州側の道と栂峠の名称は残ったけれど、上州側の道は明治中期以降は実用価値を失って廃れ、これい峠の呼び名は人々の記憶から完全に消え去ってしまった… ということなのでしょう。

        さらに時間をかけて古い石碑でもないか探してみたかったのですが、 すぐ西のあたりからゴロゴロ聞こえてきました。 垂れ始めた雲が稜線とピークの周りで速くて複雑な動きを見せています。 暑い夏の午後2時だし、これは強烈な雷雨になるかも。 休憩もそこそこに、後ろ髪をひかれながら引き返しました。

        結果、残念、ここがこれい峠だという物証は見つけられなかった。 でも言えるのは、あそこはなんらかの固有名詞が付いていてもまったくおかしくない場所だということ。 そこで、現時点での仮説として、

    水の戸から南に分岐して北相木に向かう登り道が国境稜線に達した地点がこれい峠である

    と提唱してみることにします。 さて、ホントかな?










    正保信濃國絵圖 正保4年 (1657年)

        「これい峠=栂峠、すくなくとも同一経路説」を提唱して早くも2年半が経過。 いくつか新しい古地図 (なんだそれ…)がみつかりました。

        上田市マルチメディア情報センターが 正保の信濃国絵図を非常に精細に見られるブラウザビューワとともに提供 してくれています。 これはいままで見てきた絵地図よりずいぶん時代をさかのぼるもの。 北相木の道を見ると、東は拾石峠に合して上州山中ノ内白井につながっています。 実際には栂峠=これい峠の道が大日向からの道と合流するのは十石峠の東の水の戸ですから不正確な表現ですが、 北相木から東に行けば白井関に行く、という接続概念の点では正確です。

        この地図では南相木と上州山中領をつなぐ道は描かれていません。 そのかわり南相木から南東に進んで山を越えて千曲川沿い現川上村の居倉に出て、 秋山村を通過しておそらく十文字峠(あるいは三國峠か?)を越えるルートが見えます。

        北相木村が秩父方面と行き来するとしたら山中領経由で、南相木村が秩父と行き来するのは中津川経由、 と考えられていたということなのでしょうか。


    [Original] 上田市市立博物館所蔵 上田市マルチメディア情報センター 正保の信濃国絵図


    元禄信濃國絵圖 元禄14年 (1701年)

        上田市マルチメディア情報センターが提供しているもうひとつの國絵図が 元禄の信濃国絵図 。 こちらは1701年。 ムラをつなぐルートの接続概念がかなり正確に書かれており、 山岳部の接続も正確になってきています。

        これい峠はその名称とともに白井関に行く道であることが描かれています。 蟻ヶ峠も見えますがそこに道は描かれておらず、 また南相木村の奥に道はありません。 南相木からは正保の信濃国絵図と同様に居倉に出て秋山村を通過し、十文字峠を越えて秩父に出る道が描かれています。

        ここまで私は主としてインターネットで公開されている絵地図をいろいろ眺めて、 これい峠は楢原村白井と北相木村とをつなぐ峠道だと結論しています。 そのこれい峠道はいつごろから利用されていたのでしょうか? 北相木村には縄文時代の遺跡があり、かなり早い時代から人間が生活を始めていることは明らかです。 当然、狩猟のために人々は奥深い山にも入り込んでいたでしょう。 それがやがてムラとムラとの交通交易路として確立していき、 そして峠が名前で呼ばれるようになります。

        深い山を隔てた集落間の交通ルートの開発を推し進める最大の力は、やはり軍事。 効果的な進攻を欲するならば地理の把握は最優先事項。 今まで見てきた地図はいずれも江戸時代のものですが、 戦国時代の絵地図があってもよさそうです。 そして北相木のむかしを調べだすと、たちまちNHKの大河ドラマの世界に放り込まれてしまいます。 うう、こっち方面まるきり弱いんだよなあ。


    [Original] 上田市市立博物館所蔵 上田市マルチメディア情報センター 元禄の信濃国絵図

    銅鐫大日本国細図 元治2年 (1865年)

        この地図では、これい峠の経路は白井関を出てから十石峠道と分岐して峠を越えていますが、 その行先は「白岩又三河田出」とあります。 栂峠を経由して南相木の三川に出るルートは、どんなものだったのでしょうか? 御座山を越えて栗生川に降り、さらに栗生坂で三川へ? ずいぶんな道のりです。 それとも稜線沿いにルートがあったのでしょうか?

        この「大日本国細圖」はいまでいう分県地図ですが、信濃国の地図を見ても南相木と上野國をつなぐルートは描かれていません。 南相木は秩父へのゲートウェイであり、上野村に向かうトラフィックは少なかったのでしょう。
        しかしまあ、この地図では上・武・信の三国峠から赤岩峠そして志賀坂峠までがとても近く書かれています。 上武国境の地形距離の表現ときたらとんでもなくめちゃくちゃ、といえますね。 よく見たらこの地図では、上武国境は神流川による川分けになっているようです。


    [Original] 札幌市中央図書館デジタルライブラリー 銅鐫大日本国細図


    上野國大地図 文化11年 (1814年)

        群馬県全図です。 十石峠もこれい峠も峠の名前などの記載はありません。 これい峠道は白川から分岐しています…あれっ、白井ではなくて白川と書かれていますね。 これはほかにも転記ミスがありそう。 そうみると、楢原が「樽原」と書かれていますし、だいたい堂所と楢原の位置関係は逆じゃないのかな。

        この地図でのこれい峠道は白井関を過ぎた後に川を渡っていますが、 これは現在の北沢を渡っているということなのでしょうか。 現在のぶどう峠ルートに近いようにも見えます。 ほかの場所を見ると、道路は小判型の集落マークを突っ切っているようには書かれておらず、その脇を通過するように赤い線が引かれています。 よって、この地図で「これい峠への道は中ノ沢を通過していない」と言い切るのは苦しいものがありますね。 もしこれい峠への道が中ノ沢を通過しているのなら、 「これい峠は栂峠ルート」説には逆風で、

  • 「これい峠は現在のぶどう峠付近を通り北相木に出るルート」説
  • 「これい峠は品塩山稜線づたいで南相木に出るルート」説
  • 「これい峠は仲ノ沢本谷を詰めて南相木に出るルート」説

  • のいずれをも支持することになります。 なんにせよこの地図でそこまでの正確さは出ていないでしょうから、 結局この地図からでは「これい峠のルートはどれだか釈然としない」というオチでしょうか。

        浜平までの道はそこではっきり行き止まりになっています。 「浜平から奥に行く交通ルートはなかった」といえるでしょう。 神流川源流への道はなかったわけです。


    [Original] 群馬県立図書館デジタルライブラリー 上野國大地図


    経路長を考える

        これまではずっと古地図を見て、ほぼそれだけを頼りに「これい峠は栂峠ルート」説を唱えてきましたが、 このページをご覧になった大ベテランの方から電子メールでご意見をいただきました。 その方はシロートにすぎない私の説を肯定的に受けていただいたのですが、さらにいくつものヒントを示してくださいました。

        ひとつめは、経路の距離についての考察。 これい峠は、1724年 (享保9年) 完成の信濃国の地誌である信府統記に以下のように書かれています。

    信府統記 第1巻 (1724年) P039

    これい峠峰通國境 十石峠ヨリ辰巳ノ方 上野國ニテモ同名 相木村ヨリ上野國楢原村ノ内白井迄五里是ヨリ三國山マテノ間峰通國境 相木市兵衛同弟四郎等居城也天文十一年(1542年)壬寅武田家ヘ降参八十騎の軍役ヲ勤メ山縣カ聟ニナレリ後天正年中勝頼没落後家康公治メ給フ時攻合等アリ此城ニ籠ル所ノ者明ケ退ケリ


        これい峠は上野村白井と相木村を5里、約20kmで結んでいる、と書かれています。 さらに、すでに見てきた絵地図ではこれい峠の経路長はすべて5里と示されています。

        もういちど「楢原村白井と相木村をつなぐ経路」でありえそうなものを地図に示してみました。右図。 茶色の破線の3本は、上から順に

  • 水の戸 - 栂峠 - 白岩 - 北相木 ルート
  • 中ノ沢 - 仲ノ沢本谷 - 1791峠 - 栗生 - 南相木 ルート
  • 中ノ沢 - 品塩山稜線 - 1916峰東南東の1705m峠 - 三川 - 南相木 ルート

  • です。 現代の地図に示されている破線道や車道を経由して線を引いたもので、 徒歩交通時代の経路に比べて急斜面を迂回して経路長はすこし長めになっているはずです。 ここで一番上の栂峠ルートの経路長は21km。 信府統記の5里という記述とほとんど一致しています。

        信府統記では十石峠の記述として「楢原村白井から大日向村まで5里半」とあります。 大日向村のスポット位置を現在の佐久穂町大日向の諏訪大明神前に置いて同様に現代の地図での経路長を求めてみると、23km。 これい峠の21kmに比べて2km長く、これは「5里」と「5里半」との半里の違いとぴったり一致します。 信府統記での距離の記述は、科学的測量技術がなかった時代であるにもかかわらず、かなり正確なものに思えます。

        ここで、右の地図に示した他のルートは、

  • 2番目の1791m峠を越える南相木へのルートの経路長: 25km
  • 3番目の1705m峠を越える南相木へのルートの経路長: 26km

  • になります。 4km以上、1里以上違うのですから、 信府統記では5里ではなくて6里と書かれたはず。 つまり、信府統記ならびに古地図での距離の記述は、

    これい峠は北相木へのルートだった

    ことを支持しています。





    方位を考える

        信府統記での新たな問題は、上記引用した記述には、これい峠は「十石峠ヨリ辰巳ノ方」、つまり十石峠から南東の方角にある、 と書かれています。 これは大問題だ。 栂峠は、十石峠から南西の方角にあります。 どう解釈すればいいのだろう? 現代の解釈、つまりこれい峠は南相木に出る1916峰の南東にある国境稜線の1705m峠だとしても、 そこは十石峠のほぼ南にあり、南東とは言えません。

        でもこれはそうシリアスにとらえなくてもいいのかもしれません。 古絵図は、明治時代に入ってからでさえ国境稜線の地理的形状を正確に表したものはないのですから。

        信府統記が編纂されたのは1724年。 この少し前の地図として、すでに示した元禄信濃國絵圖 (元禄14年 - 1701年) があります。 信府統記の記述にあたって、元禄信濃國絵圖が参照されたとして不思議ではないでしょう。 この地図では十石峠から三国山に至る上信国境の地理的形状はかなり不正確で、 これい峠は確かに十石峠の南東に描かれています。 さらには、十石峠-これい峠間の距離とほとんど同じ距離ぶん南東に進めば蟻ヶ峠、さらにほとんど同じ距離南東に進んで三国山。 確立された道沿いの経路長計測は当時かなり正確にできていたようですが、 2点間の方位や直線距離を正確に読むことのできる地図は、迅速測圖の時代まで待たなければならないということでしょう。





    北相木と南相木

        別の問題は、信府統記に現れる「相木村」は北相木村のことなのか、南相木村なのか。 相木氏の居城について言及されていますが、相木城は南相木村に古城が、北相木村に新城がありました。 また「相木市兵衛」は相木氏代々で受け継がれた名であり、特定の一個人を示していません。 これについては 郡村誌の北相木村誌ならびに南相木村誌に記述があり、 戦いに敗れた相木氏は白岩を通って山越えして上州領に逃れた、とあります。 使われたのは栂峠ルートに間違いなく、 信府統記でのこれい峠の記述での「相木村」は北相木村を示しているとみてよいと思われます。




    ここを通行することはできなかったのでは

        大ベテランさんはもうひとつ、すっかり見落としていたことを指摘してくださいました。 江戸時代、山中領の山奥は御林とされていたのだから、 一般者の立ち入りは厳格に禁止されいたはずだ、と。

        いわれてそうかと気づき、もういちど「上野村の歴史」に掲載されている御林図を見ると、 神流川源流域の大部分は御林に設定されています。 また、将軍の狩猟に用いる鷹を育成するための保護区域であった御巣鷹山が、山中領内にいくつも設定されていることがわかります。 地図に御林を書き入れてみました。 細部は正確でないかもしれませんが、とりあえず右図。 薄青色が御林です。 仲ノ沢本谷詰めルートや品塩山ルートは、御林を通過しています。

        無計画な伐採による森林破壊を防ぎ、幕府の管理のもとに開発と保護を行う御林の制度が機能し始めたのは1600年代後半。 相木氏や武田氏が上信国境の山岳地帯を舞台に戦いを繰り広げたのは戦国時代。 そのころには御林制度はまだなかったわけで、 したがって南相木ルートは戦国時代には開発されたのだろうけれども、 御林制度が確立した1600年代末期には立ち入り制限のために一般商用交通ルートとしての発展の妨げになったのかもしれません。

        御林は、しかし立ち入りを厳格に規制する御巣鷹山とは異なって、管理された森林開発のためのものだったはず。 大ベテランさんはさらに森林開発史の文献情報も教えてくださいました。 中ノ沢水系源流域には、管理開発のため物資供給・搬出用の作業道が開かれました。 御林時代にも南相木村との峰越交通は確かにあったのです。

        水田がない山中領は米は佐久からの輸入に頼らざるを得ず、一日に十石のコメが越えたのが十石峠…というのはよく知られた話です。 中ノ沢源流域の作業現場への物資供給は、南相木からが主だったのでしょうか、それとも楢原村側からだったのでしょうか?

        ともかくも南相木と楢原村を結ぶ道は確かに存在し、ときには地域間交流のためにも使われたでしょう。 しかしそれは長くて険しい道。 商用交通ルートとしては十石峠や栂峠に比べると利便性は大きく劣っていたはずで、 この道はやはり山稼ぎ人など限定した人々のための道だったのでしょう。 結局、

    南相木村と楢原村の間には日常的に使用される一般商用交通ルートが確立されることはなかった

    のだろう、と思われます。 であれば、そんな杣道が十石峠と同じ扱いで上野國全圖といった広域地図に掲載されるはずはありません。 このことは

    これい峠は南相木に抜ける峠ではない

    ことを支持するでしょう。

        明治になるとこのあたりは国有林となり、営林署による維持管理そして伐採がすすみますが、 一般交通ルートに発展することはなく、 大正期以降は南佐久と上野村間の商用交通はもっぱら十石峠とぶどう峠が利用されるようになって、 南相木ルートは完全に衰退した、ということのようです。



    これい峠の歴史

        触れられている文献がとても少ないこれい峠ですので、この峠がどのような歴史を持つのかを知るのは容易ではないでしょう。 目についたものを書き出してみることにします。

        まずは郡村誌から、南相木村村誌。

    郡村誌から: 信濃国佐久郡南相木村 村誌 明治十二年六月編

    古跡
    相木能登守常喜初メ與七郎後市兵衛ト称トアリ 北相木村諏方社棟札ニ永禄十一年四月三日本願依田民部S長繁同子息与七郎岳繁トアリ是ハ相木常喜トハ別人ナランカ常源寺古文書ニ永禄三年相木常喜トアリ 常喜ノ妻ハ山縣昌景ノ女ナリ昌景江尻ニ在城ス常喜相備組衆ノ中ニテ八十騎ノ将ナリ 里俗傳ニ八十騎後十六騎ヲ加ヘラレ九十六騎ノ将ト云フ確乎タラス 常源寺過去帳常喜永禄十年正月四日卒ス同帳ニ相木市兵衛常祐又采女遠州高天神城ヲ守ル天正九年三月廿二日徳川勢ノ為メニ戦死ス又相木能登守常武アリ 按ニ常源寺過去帳モ後ニ記シタルモノナレハ確乎タラス 編年集成ニ相木市兵衛昌朝高天神城ヲ遁ルトアリ又同書ニ依田能登遁ルトアリサレハ市兵衛昌朝常祐ト能登恐ラクハ同人ニテ遁レテ甲州ヘ帰シナランカ十年三月武田勝頼滅ヒ織田信長ノ所有トナリ本郡其臣瀧川左近将監一益ノ所領トナル六月織田父子ノ凶變ヲ聞キ一益上國ス北條氏直大挙シテ本郡ヲ侵ス諸将皆降ス相木能登守田ノ口城ニ居シテ 相木氏本村ヨリ之ニ移ル 北條氏エ降ル徳川氏ノ幕下依田信蕃初メ諸将本郡ノ諸城ヲ襲フ北條氏直甲州ニ入徳川家康ト戦フ十月和ヲ議シテ本郡徳川氏ノ所領トナル十一月信蕃以下ノ諸将田ノ口城ヲ攻畧ス相木能登守遁レテ相州小田原ヘ走ル天正十八年五月能登伴野刑部ト議シテ本郡ヘ来リ旧臣ヲ集メ勝間ヶ原ニテ松平 夲姓依田 修理太夫康國ト戦フ相木氏伴野氏敗レテ又平林 按ニ本郡平林ノ地名數所ニアリコレハ何処ト云フ未詳シカレトモ本村西ノ方ニ甲州ヘノ通路ニコノ地名アリ又北相木村字屋敷平ニテ戦シト里老ノ口碑モアリ後考ヲ俟ツ ニテ戦フ又敗績シテ刑部ハ戦死シ 相木氏ハ白岩ト云フ処ヨリ山越ニテ上州甘楽郡野栗谷ト云フ所ヘ遁ル 後徳川氏ノ幕下内藤氏ノ食客トナリ後ニ家臣トナル


        天正18年 (1590年) に戦に敗れた相木氏は、白岩を通って…つまり栂峠ルートで現上野村の野栗に逃げたと書かれています。




    どのような経緯でこれい峠が南相木の道だと考えられるようになったのか?

        ここまでの検討結果から私は 「これい峠は楢原村白井と北相木村をつなぐ栂峠ルート上にあり、大正の頃からこれい峠とは呼ばれなくなった」 と提唱しているわけですが、 もしその通りだったのだとすれば、

    いつのころから、さらにはどのようにして、南相木への道がこれい峠だと思われるようになったのか?

        いまは休刊となってしまって久しい『上州路』のバックナンバーを読み返してみると、須田 茂さんは

    上州路 2006年01月号 須田 茂 連載23 群馬の峠を歩く 奥多野の三国峠

    3. 神流川源流域の峠への探訪
    ぶどう峠からこれい峠へ
      昭和四十四年の晩秋、群馬大学の山仲間と共に、ぶどう峠から甲武信ケ岳 (甲武信岳) への山旅を試みた。 ぶどう峠、会社平、これい峠に幕営しながら稜線を歩いたが、倒木と藪に苦しめられ、これい峠の南方で撤退を余儀なくされた。 歩くだけで精一杯で、景観の記憶は全くというほどない。


    と書かれており、また同稿に掲載されている地図に1916m峰の東南東で県境稜線を越える地点にはっきりと「これい峠」と示されておいでです。 これはおそらく現在の地理院地図でも破線で示されているルートで、白井から中ノ沢を通過して品塩山の稜線を進むルートでしょう。 須田さんは「群馬の峠」でもこれい峠は「南相木三川への道」とされていますから、 ちょっと↑に示した地図では、3番目、いちばん下の南回りルートです。

        ここを最新の地理院地図で見ると、鞍部の標高は1700mをわずかに下回る程度です。 破線で示されている徒歩道は最低鞍部の北西水平30mほどのところを通っていて、経路の最高標高は1703mです。 この峠は大正・昭和初期の五万図で標高1705mとはっきり示されているので、以降本稿ではここを「1705m峠」と呼ぶことにします。

        須田さんが一緒に歩かれたのは群馬大学の方々…群馬のヤマのオーソリティです。 いまから50年近く前の1969年にはすでに、群馬の山に一番詳しい方々がこの1705m峠をこれい峠だと認識していたということになります。

        この疑問についても、このページについてメッセージをいただいた大ベテランさんがいくつものヒントを出してくださいました。 大正期に活躍した登山家の方々の発表作品と、それらがどう解釈されたかを見ていく必要があるだろう、と。

        ラジオ小僧→アマチュア無線家→山に登れば遠くまで電波が飛ぶ→無線機持ってバイクで山に行こう→峠越えのおもしろさにハマる、 という機序でここまできた私は、正式な登山の訓練を受けたことはなく、また山の名著の数々も、ほとんどまったく読んだことはありません。 「大家の方々」も「必読の名著」も、いずれも初めて耳にするものばかり。 うひゃー、いかに不勉強のままだったのかを反省。





    「晩春の神流川源流へ」高畑 棟材 「山岳」第16年第3號 大正12年(1923年) 5月

        高畑 棟材氏による、初期の西上州の登山紀行です。 いただいたアドバイス [外部リンク] に依ればまずはこの紀行文の中で高畑氏がこれい峠について書かれたとのことです。 ので、オリジナルの「山岳」第16年第3號を入手しました。 "奥上州"特集号です。

        1923年05月は関東大震災の4ヵ月前。 この時代の登山のパイオニアは帝都にお住まいの方が多かったですから、 この後数年は登山と探検の発展にも影響が出たことでしょう。 1923年、まだ日本ではラジオ放送さえ始まっていません。 さぞかしゆったりと時間が流れていた時代だったのだろうと思いきや、 氏の、また他の記事からも、 登山者の方々が都会の息苦しい暮らしから束の間逃れ、山を峠を高原を楽しまれている様子が伺えます。 この辺、今とあまり変わらなかったのかな、と。

        さてこれい峠についてですが、高畑氏の紀行文中にも、またこの号のほかのどこにも、 これい峠については触れられていません。 高畑氏は神流川の源流を訪ねるべく浜平の宿で道案内人の手配を依頼しましたが、 源流は誰も行ったことがないから無理と断られ、 かわりに案内人とともに諏訪山に登られておいでです。

        氏は記事の中で


    中ノ澤をずつと遡り、兎も角も道と名づくべきものを辿つて行くと、中ノ澤村に至つて二つに岐れ、 共に信州の南佐久方面へ通つてゐるさうである。


    と書かれておられるのですが、それが土地の人に聞いた話なのか、出発前に登山仲間から聞いたことなのか、はっきりしません。 氏はこの山行きに際して「十石峠」の五万図を携行しておいでです。 昭和4年要部修正・昭和27年応急修正版の同図では中ノ澤から分岐するぶどう峠ルートと、 例の1705m峠 (最近までこれい峠と呼ばれていた峠) のルートが掲載されています。 氏が参照していたバージョンの五万図にこれらのルートが記載されていたのかどうかは追確認が必要でしょうけれど、 氏の「共に信州の南佐久方面へ通つてゐるさうである。」は、地図を見てそうおっしゃられたのかもしれません。 ともかく「山岳」のオリジナルの文では、「1705m峠はこれい峠」とは全く書かれていません。 はて。






    「奥秩父 全2巻」原 全教 昭和10年 (1935年) 昭和52年再版

        この書籍の名も原 全教氏の名前もそこここで聞いていましたが、秩父は私のテリトリーではないし…と思っていました。 が、空前絶後の名著とさえいわれるこの書を、お読みなさい、と、別の大ベテランさんが送ってくださいました。 若輩者へのご指導、ほんとうに感謝の意に堪えません。

        題は「奥秩父」としながらも、原 全教氏は奥秩父の北に位置する西上州や西の信州側も精力的に歩かれ、 この書を書かれました。 その内容たるや…質・量ともにこれは本当にすごい! 空前絶後、が決して大袈裟ではないことがすぐにわかりました。

        本篇・続篇の2巻からなるこの大著ですが、これい峠を直接的に記述したところはありませんでした。 唯一触れられているところとして、次の記述があります。


    「奥秩父 続篇」金峯山と千曲川 - 本流と支流と尾根 - 二本木ノ澤その他 (p485)

    本流右岸の尾根
      …三國山は梓山方面では二本木ノ頭と云ふ。西へ辿つて千九百七十八米の峯はショナミノ頭と云ふ。 これから南へ出た尾根の肩に、アリガ峠と云ふ地點がある。或はアリガ峠と云ふのは、二本木とショナミの中間の大尾根の低い所だとの説もある。 享保年間松本藩で編纂された信府統記には、「コレイ峠より辰巳…」としてある。 コレイ峠については機をみて述べる。 次の千九百十四米の峯は、東澤ノ峯と云ふ。 相木の方では悪石ノ頭と云つてゐる。 この南尾根の一端、地圖の扇平はセンダヒラ山である。


        ここは三国峠から西北西に延びる上信国境の稜線についての解説であり、 蟻ヶ峠 の説明です。 これい峠を説明しているわけではありません。 蟻ヶ峠はこれい峠からみて辰巳の方角、つまり南東の方角だと信府統記には書かれている。 ならばこれい峠は蟻ヶ峠からみて北西の方向にあるはずだ。 1705m峠は蟻ヶ峠からぴったり北西の方向にあります。 しかし本書のここの説明ではどの程度の距離のところにとは書かれていないわけで、 だから1705m峠がこれい峠だと確定することはできないでしょう。 すでに書いたように信府統記の記述は行程距離は正確そうですが方角は怪しく思えますので、 信憑性には大きな疑問あり。 結局、この文ではこれい峠がどこだとは読めないと思います。

        ともかくも「コレイ峠については機をみて述べる。」 とあるので、ワクワクしてこの大書の他のページを読みましたが、記述は見つかりませんでした。 「奥秩父 続篇」のあとに出された書物に書かれているのでしょう。

        「奥秩父 続篇」には各所の地図が掲載されていて、沢や峯などが、いまや他のどの文献にも見られない地名とともに詳細に示されています。 地図だけでもすごい。 で、その一部拡大が右図。 例の1705m峠は、上州側には道がなく、信州南相木村側は「廃徑」。 この峠のルートは江戸期・明治期にはごく細い道としてあったにしても、昭和初期までには使われなくなっていたのだ、 ということを示しています。 そしてそこに、「会所」との地名。 さあ、 こんどはこっちの続き か。

        この地図には (右で引用した部分には見えていませんが) 栂峠がはっきりと書かれています。 明治40年の地形図には栂峠と掲載されているのですから、当然のこと。 私の「これい峠がいつしか栂峠と呼ばれるようになった」説にご意見を下さった大ベテランさんは、

    「栂峠の名称は明治後期に陸地測量部が地図作成の際に(勝手に)つけたものなのだろう」

    と推測されておられました。 多くの古地図にたいてい掲載されていたこれい峠、 それを葬り去ったのは陸地測量部、だったのでしょうか?






    「奥秩父研究」原 全教 昭和34年 (1959年)

    p255 神流川の山と谷

        このチャプターでは、神流川上流の、上武国境・上信国境の山が紹介されています。 上野村の神流川上流、中ノ沢の源流域の山の峰筋の説明として次のように書かれています。


    中ノ沢
      石仏ノ頭 ― 弥次ノ平 ― ツギノス

      これから西へうねって低いタルミは会所 (1705)、 さらに西北の肩 (1780) からは、中ノ沢の本沢と釜ノ沢を分つ大きい長い尾根がのびている。 石仏ノ頭 (1915) は相木では南の沢名に因んで大黒ノ頭ともいう。 次に弥次ノ平(1991)で神流川水源の最高峰として、黒木の大きい峯である。北へ高度もおちツギノス (1821) となり、 ここから東へつきでる大きい尾根は清水日向といって狩場である。


    本文中の解説では、1705m峠は「会所」とされていますが、「コレイ峠」とは書かれていません。 いっぽうで、p257にあるこのチャプターの解説地図「神流川」では、1705m峠に「コレイ峠」「会所」とはっきりと記載されています。

    p267 相木川と御座山

        西側からのアプローチ、すなわち南相木村の南相木川から上信国境の山への記述としては、次のように書かれています。


    弥次ノ平
      ヌクイノ頭 (p274)

      北の方は栂と白樺の隙間もない密林である。 地図の径は東へ横手にまき、会所へ達して上州へ越しているが、いまは会所までようやくで、上州の方は跡形もない。 信記にも「コレイ峠、相木村より上野国楢原村ノ内、白井へ五里……」と書いてある古道で、 30年前までは駄馬が通ったというから、恐らく秩父の十文字峠や松尾坂以上に変化があり、そして奥深い峠路であったことと想像されるのである。


        ここではじめて「コレイ峠」が本文中で言及されています。 「いまは会所までようやくで、上州の方は跡形もない。」は、原氏が自ら歩かれたときの観察を書かれているものにまちがいないでしょうし、 また 「30年前までは駄馬が通ったというから、」はおそらくは地元の聞き取りによるものなのでしょう。 明治期には1705m峠を経由した南相木村と上野村の交通があった、のは間違いないでしょう。 しかし 「信記にも『コレイ峠、相木村より上野国楢原村ノ内、白井へ五里……』と書いてある古道で、」 の部分は、 地元の聞き取りによるものではなさそうです。 ここは、氏がみずから信府統記を読まれてそう解釈されたのか、 それともそのように書かれた既出の文献を参照なさってそう結論されたものなのか?

        こう見ると本書では、地図にははっきりコレイ峠の位置が示されてはいるものの、 なんとなく氏は「1705m峠がコレイ峠である」と強く確信していたわけではなさそうにも思えてきました。 いまでは推測の域を出ませんが、ひょっとしたら氏は「相木村より白井へ五里」「十石峠から辰巳の方角」の信府統記の記述との不整合にお気づきで、 1705m峠とコレイ峠の同定に疑問をお感じだったのかもしれません。 しかしそれを否定するような強力なエビデンスもなく、 すでにそのように解釈され認識されていたから そう書き記した、 そんなわけだったのかもしれません。




    「多摩・秩父・大菩薩」原 全教 昭和16年 (1941年)

        昭和34年刊の本書「奥秩父研究」の内容の大半は、改版の「奥秩父」と昭和16年の「多摩・秩父・大菩薩」の再掲です。 ので、「多摩・秩父・大菩薩」を読んでみることにしました。 図書館の相互貸借制度を利用して遠方から取り寄せた「多摩・秩父・大菩薩」は、昭和16年12月1日発行。 この1週間後に、日米開戦。 趣味での山歩きなど望むべくもない時代に突入してしまいました。 この本には貸出カードが当時のままついていて、昭和17年8月に一人、昭和18年6月に一人、昭和20年7月に一人が借りています。 どんな人がどんな気持ちでこの本を読んでいたのでしょう…。


    「多摩・秩父・大菩薩」原 全教 昭和16年 (1941年)
      ヌクイノ頭 (p394)

          ものすごい岩頭が澤の奥に聳えている。 ちよいと木がうすれ、小雑木が生え萱のそよぐ涸澤である。 圖の家は、往年會所を經て神流川との交通が盛んだつたときの足だまりで、草かげの石垣に昔を語るだけである。 この上を横ぎつて西寄の窪へ入り、東側の裾をからみ、岩峯へ近づいて、こまかい電光形を描き、 さき水源を見下した岩頭から一時間でヌクイノ頭へつく。
          南へ黒木の一線をひく村界の大尾根のむかふに、やつぎばやに現はれる大頭は、金峯や小川である。 北の方は白樺と栂の隙間もない密林である。 地圖の徑は東へ横手にまき、會所(1705)へ出て上州へ越してゐるが、今は會所までがやうやくで、上州の方はほとんど跡かたもない。 信府統記に「コレイ峠、相木村ヨリ上野國楢原村ノ内、白井ヘ五里…」とまで書いてある古道で、 五十餘年前までは、駄馬が通うたといふから、恐らく秩父の十文字峠や二本木峠にも劣らない奥深い變化ある徑であつたらう。



    「多摩・秩父・大菩薩」原 全教 昭和16年 (1941年)
      上信界 (p396)

      樹林の中には、大木の根に石楠と笹が密集してゐる。 だんゝゝ急に右の小尾根を登り、ヌクイノ頭から一時間強で大きなタルミへつく。 上信の界ではあるが、一ばん低い所から三、四丁も西寄のやうだ。 すばらしい黒木林の中をゆるゝゝ登つてゆくと、北にツギノス(1821)が見える。


        昭和16年の本書で、これい峠は1705m峠「會所」であると記述されました。 昭和10年の「奥秩父」で「機をみて述べる。」とされてから6年。 原 全教氏は、当初は疑っていた "1705m峠 = コレイ峠" の解釈を、この6年の間に肯定的に受け入れたということなのでしょう。

        いっぽうで、本書p333の地図「神流川中ノ澤」(右掲。方位は北が下) を見ると、1705m峠に「會所」と書き込まれていますが、 「コレイ峠」とは示されていません。 "1705m峠 = コレイ峠"の解釈は、昭和16年の出版の比較的近くになってからなされたものなのではないでしょうか。

        ともかく、昭和16年の「多摩・秩父・大菩薩」において、これい峠は「会所」の地名とともに1705m峠に置かれました。 しかし発行のわずか1週間後に日米開戦。 その後、世の中が平和を取り戻した昭和34年に発行された「奥秩父研究」は多くの人を山にいざなったことでしょう。 他に類を見ない詳細な、しかも氏自ら歩かれて記された、疑いを挿む余地などありそうに思えない大作。 多くの人にバイブルとして読まれた原 全教氏の本にそう示されているのであれば、 これ以降、1705m峠がこれい峠であるという認識が固定されたのだ、と結論できます。

        「多摩・秩父・大菩薩」の地図では、1705m峠の群馬側の道は「板小屋日向」と地名付きで示されています。 「通行不能」と書かれているように、昭和初期にすでにこの道は廃道になっていたわけですが、 しかし逆に言えばそれ以前に「駄馬が通うた」交通があったのは確かなようです。 昭和16年の「多摩・秩父・大菩薩」では「五十餘年前までは、駄馬が通うたといふから」で、交通があったのは明治の中頃まで、 いっぽう昭和34年の「奥秩父研究」では「三十年前までは駄馬が通ったというから」だから、交通があったのは大正末期まで。 あれ、記述が揺れている。 大正元年の五万圖には1705m峠の道が描かれていて、しかし原 全教氏が昭和初期に歩かれたときは群馬側はすでに廃道状態でした。 この道が峠越え交通として使われたのは明治の初期から明治末期までで、昭和に入ったころには廃道化していた、 というところなのだろうと思います。





    どうして忘れられてしまったのか?

        原 全教氏は、大正期から昭和初期にかけて、奥秩父にとどまらず十石峠方面、北相木と栂峠も歩かれ、調査されています。 先駆者の探検であった氏の山行きは、ガイドブックや誰かのブログを参照してただ「行ってきました」であるはずがなく、 それぞれの地元の多くの方から地名やその地域の歴史やいろいろなことを伺いながらの調査旅行でした。 にもかかわらずこれい峠の位置を誤って解釈されたままだったということは、 原 全教氏が北相木や栂峠、あるいは上野村を訪れた際に、これい峠の名を口にした人は一人もいなかった 、ということになります。 大正〜昭和初期にだれもこれい峠を言及しなかったということは、 明治中期にはすでに土地の人にそう呼ばれなくなっていたということでしょう。 であれば、陸地測量部が明治末期に現地測量を行った際にもその名が出てこなかったというのも自然に思えます。 お地蔵さまがあって、明治期に入っても交通路として利用されていた峠の名が地元でも伝えられなかったというのは、 これは不思議なことです。

    なぜ「これい峠」の名は地元の人に忘れられてしまったのか?

    さらには、ひょっとして

    江戸後期にはすでに人々に「これい峠」とは呼ばれなくなっていた

    とか? うわあ、これはたぶん永遠に証明できないんじゃないのかな。



    「山を行く」高畑棟材 昭和5年 (1930)

        2020年03月、高畑棟材著「山を行く」をようやく手に入れることができました。 昭和5年に刊行されたこの本、本文内にはこれい峠の言及がありませんでしたが、 巻末 ほんとうに最後の最後に収録されている『神流川雑藁』に、問題のステートメントがありました。


    「山を行く」高畑 棟材 昭和5年 (1930年)
      神流川雑藁 (昭和3年 1930年)

      また序乍らコレイ峠といふのは、『信府統記』に「これい峠。峰通國境十石峠ヨリ辰巳ノ方上野國ニテモ同名」 と出てゐるものであつて、秩父の古禮山の様にサハギバウシ(コレツパ又は山ガンピョウとも言ふ由) の方言「コレ」から導かれたとかいふ稱呼であるや否やは調べ漏らした。 十石峠圖幅で言ふと、群馬縣多野郡上野村字中ノ澤から、長野縣南佐久郡南相木村三川に到る小径が、 上信國境の凹所(獨立標高點一七〇五米)を踰えてゐる其の凹所に附けられた峠名であるが、 現今では殆ど荒果ててゐる由を、 大島氏は「小倉山」で「現今通行者絶え路痕なき程なり云々」と述べて居られる。 私も夫れと同じ意味の話を濱平の旅舎で耳にした。


        ここで高畑棟材氏はこれい峠を1705峠に決定的に同定しました。 これが以降2013年にわたしが異議を唱えこのページを書くまで、 83年間もの間山岳関係者の共通理解となったのです。

        高畑棟材氏は奥上州のパイオニアとして現地を歩かれただけではなく、 とても多くの文献や地誌・絵図類を参照され、 また現地の人々の話を可能な限り収集されました。 その努力の結果です、もとより責めることなどできようはずがありません。 氏は自ら


          以上で、正徳の古繪圖に基いた上州神流川水源地に於ける山谷の概況は、一先づ述べ終つたが、 みづから實査せぬ箇所も多いこと故、思違ひや臆斷も少なくないであらうと思ふ。 同好の士の御叱正を得れば幸である。


    とお書きです。 氏の志をここにほんのわずかでも継ぐことができると良いなと思います。


    高畑棟材 著 「山を行く」『神流川雑藁』 より引用



    長野縣町村誌 第二巻 東信篇 (昭和11年)

        2016年9月に「これい峠は上野村白井と北相木村白岩を結ぶ道が上信国境を越える峠であり、現在では栂峠と呼ばれている」 と確信してから はや5年が経過した2021年07月、 NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ が特別コンテンツと称して

    『長野県町村誌』と明治初期の村絵図・地図

    の公開を始めました。

    さっそく北相木村のページを読んでみると、 いきなりずばりの記載がありました! 長野縣町村誌は2014年2月に臼田の図書館いに行ったときに手に取っていたのになあ、 なんでそのときに気づかなかったんだろう。

        この記述ではこれい峠は 「古來峠」 と表記されていますね。

        掲載されている「長野懸町村誌」は昭和60年の復刻版で、 オリジナルの発行は昭和11年 (1936年) です。 ということは、高畑棟材氏が「神流川雑藁」をお書きになった昭和3年にはこの書物はまだ発行されていなかったわけです。 でも、原全教氏の「多摩・秩父・大菩薩」(昭和16年) 、さらには「奥秩父研究」(昭和34年) のときには入手可能だったのでは? しかしどうやらオリジナルの「長野懸町村誌」は印刷数が少なかったようですから、 帝都在住の登山家の手には届かなかったのでしょう。

        ところでそうなると次の疑問は、なぜ北相木村町村誌では「栂峠」ではなくて「古來峠」と書かれているのか。

        陸地測量部五万図「十石峠」は大正元年測図・昭和4年要部修正測図で、昭和7年には発行されています。 高畑棟材氏も陸地測量部五万図を参照して奥上州を歩かれており、そのときは大正元年測図の初版の地図だったはずで、 そしてそこには「栂峠」と記載されています。 昭和に入るころには「これい峠」の名が廃れて「栂峠」とひろく呼び習わされていた、 というのであれば、北相木村の「町村誌」にもそのように書かれるはずなのに。

        やはり地元ではすくなくとも昭和ひと桁年代までは「これい峠」と呼ばれていて、 陸地測量部が名付けた「栂峠」は、地元にはなじみのない名前だった、 とするのが筋が通っていそうです。



    長野縣町村誌 第二巻 東信篇 より引用



    結論

        ということで、本稿ではこれい峠について以下のように結論します。


    これい峠
          「コレイ峠」「小鈴峠」または「古來峠」とも書く。 群馬県多野郡上野村白井と長野県南佐久郡北相木村白岩を結ぶ延長21kmの道が、 群馬県と長野県との県境稜線を越える峠。 標高1570m。 峠上には小ぶりの地蔵尊がある。

          これい峠の経路は、上野村白井を出て西進し十石峠街道を進んだ後、上野村水ノ戸で南西に分岐して上信国境の稜線に達し、 栂峠川沿いに下り、北相木村三寸木に降り、北相木村白岩に達する。 この道は北相木から上州に出る唯一の経路であり、遅くとも戦国時代には成立しており、 大正期まで上信交易路として利用された。 現在は上野村水ノ戸〜北相木村栂峠林道終点間は徒歩のみでの通行が可能である。

          大正元年に陸地測量部が五万分の一地形図を作成する際、 これい峠は「栂峠」と記載された。 以降 この峠は「栂峠」と呼ばれるようになった。

          昭和3年に高畑棟材氏は「神流川雑藁」においてこれい峠を誤って上野村-南相木村境の1705m峠に同定された。 これを受けて原全教氏は昭和16年の「多摩・秩父・大菩薩」にそれを掲載し、 以降それが 須田 茂氏の「群馬の峠」(平成17年 2005年) の記述を含め山岳関係者の共通認識となった。 この誤りはNoobowSystems Lab. が2013年09月に疑義を唱えるまで疑われることはなかった。


        たぶん間違いないでしょう。 今後さらにどんな事実が明らかになってゆくか? その名の由来を知れる日がくるのか? それとももはやなにも手掛かりがないまま「これい峠」の名は忘れられていくのか? 楽しみにすることにします。




    これい峠



    年表

    記事
    享保9年 (1724年) 信府統記
    大正12年 (1923年) 高畑 棟材 『晩春の神流川源流へ』「山岳」第16年第3號 奥上州特集号
    大正12年 (1923年) 9月 甲府の山砲大隊が軍事演習で栂峠を越える
    大正15年 (1925年) 大島 亮吉 4月末 栂峠 のちに 『小倉山』「山岳」第20年第1號に掲載
    昭和3年 (1928年) 高畑 棟材 『神流川雑藁』 発行
    昭和5年 (1930年) 高畑 棟材 「山を行く」 発行
    昭和10年 (1935年) 原 全教 「奥秩父」全2刊 発行
    昭和11年 (1936年) 長野縣町村誌 発行
    昭和16年 (1941年) 原 全教 「多摩・秩父・大菩薩」発行
    昭和34年 (1959年) 原 全教 「奥秩父研究」発行
    平成17年 (2005年) 須田 茂 「群馬の峠」発行
    平成18年 (2006年) 須田 茂 「群馬の峠を歩く」上州路 2006年01月号






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