ハスラー50 | ♪ |
ホンダNC50-IIIパルフレイでスタートした私のモーターサイクルライフの始めは、転ぶ、捕まる、恥をかく、事故を起こす…
といった情けないことの連続でした。
僕はバイクには向いていないのかな、と落ち込む日々でしたが、しだいに何とかなりそうに感じられてきました。
そこで、新聞配達に加えて夕方から夜のガソリンスタンドでのアルバイトもして、50ccスポーツバイクを買うお金を用意しました。 まだモーターサイクリングの何たるかをちっとも知りませんでしたので (いまでもたいしたことありませんけれど)、 車種選びも難航しました。 目的はスピードを出すことではなく、移動運用に行くこと、だから山にいけることが要求仕様でした。 無線機と機材を積んで赤城の山頂まで快適に行くには、どんなバイクがいいんだろう。 マニュアルトランスミッション車で、ある程度の荷物を積めて、簡単には壊れなさそうなもの。 雑誌をながめ、2車種が候補に上がりました。 ホンダバイアルスTL50と、ホンダノーティダックス。 特に4サイクルエンジンを希望していたわけではありませんでした。ただ、見た目で何となく。 TL50は実車をみたら細くて頼りなさそうで、シートも薄く、またメーターも貧弱に思えました。 TL50は50ccとはいえトライアル車なのですからスリムでシートが小さいのは当たり前、 メーターもなるべくコンパクトなのが望まれます。 が、当時のニューカマーにはその辺すらわかっていなかったのです。 ノーティダックスにしようかな、とほとんど決心がついていましたが、 友人が貸してくれた赤タンクのスズキハスラー50に乗ってみてびっくり、段差を何事もないようにふわりと越えます。 パワーはあるし、コンビネーションメータは端正で立派。 ダックスのようなミニバイクとはずいぶん違います。 ノーマルでしっかりしたリヤキャリアがついているし。 それに、雑誌にはハスラー50で峠越え日本一周をしている記事がありました。 そんなすごい人が選ぶマシンなんだからきっと信頼できるにちがいない。ということでハスラー50に決定しました。 グリーンのモデルが欲しかったのですが、人気で入荷にしばらくかかるとのことでホワイトを選択。赤を買おうとは思いもしませんでした。 納車初日はマニュアルクラッチの操作に慣れておらずぎくしゃく。 それでも数時間後にはエンストもせずスムースに変速できるようになりました。 慣らし運転は5000rpm1000kmと決めました。 週末は新メンバーを歓迎してくれた友人たちと上野村ツーリング。 最初私に赤タンクのハスラーを貸してくれた友人は 「50ccってすごいよな、50のピストン見たことあるか?すっげえちっちゃいんだぜ。それなのにこんな遠くまで来れちゃうんだもんな!」 貧しくて家にはクルマがなかったので山に出かけることはなく、 家からはるか西の方に見える山のシルエットを眺めてはあそこはどういう世界なんだろう、その向こうには何があるんだろう? と、小さいころから思い続けていました。ハスラー50はその子供の疑問にゆっくりと答えはじめてくれています。 |
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もしお前と同じようなヤツがいたら | ♪ |
まだ峠には雪が残るころ初めて十石峠を越え、中津川林道から戻ろうとしたころ、雨が降りはじめました。
通学自転車用の雨合羽ではじきに中まで水がしみてきて、凍えながら三国峠に向かうと、冬季閉鎖の立て札。
バイクなら行けるだろうと進みましたが、ゲートで閉鎖されていました。そんなあ、ここまで来たのに。
仕方なくもう一度臼田まで戻り、R141を震えながら北上。
すっかり日は暮れて、雨脚は強くなってきています。
今思えば、冬季閉鎖などの道路事情にも疎かったし、どのくらいの時間でどの程度進めるかを読みきれず、
加えて気象情報を軽視した初心者のプランニングミスです。 交通量もほとんどない内山トンネル(当時のR254内山峠は拡幅工事が済んでおらず、大型車は通れませんでした) を抜けて群馬側に入ると、 とたんに道幅の狭いタイトなワインディングの下りになります。 明かりもなく真っ暗な強い雨の夜道にただでさえ頼りない6V25Wタングステンの行灯ヘッドライト、 さらに水滴でヘルメットシールドの視界も悪く、ほとんど路面は見えず、 かろうじて法面とガードレールの位置から走行ラインの見当をつけるようなありさまでした。 体はすでにずぶ濡れでガチガチに冷えています。 と、どうしたわけか右カーブで突然前輪をすくわれてしまい、 マシンもろとも路面にたたきつけられてしまいました。 マシンが自分から離れて横倒しになりながら先に滑っていき、やがて止まりました。 ああ、転んじゃった…と起き上がり、右膝に熱い痛みを感じながらマシンの方に歩きはじめると、 倒れた後もどうにかポロポロ言っていたエンジンがキャブのオーバーフローのためにプスンと止まってしまいました。 ハスラー50の電装は、ヘッドライトもテールランプもメータ照明もすべてオルタネータからの点灯です。 エンジンが止まったとたん、私は完全なる闇の世界に放り込まれてしまいました。 あと数歩でマシンのところのはずなのに、まったく何も見えません。 私は這うようにしてハスラーがあるはずのところまで進み、マシンに触れることができました。 まったく何も見えなくても、いったん手が触れたらあとはマシンを起こすことは造作なくできました。 まずはウインカースイッチを入れました。 右リヤのターンシグナルランプは折れてしまいましたが、 左前後のオレンジ色の光が暗黒の世界から救ってくれました。 次はエンジン。転倒した直後の再始動手順は河川敷のプレイライドで身についていました。 スターターレバーは操作せずに、スロットルを全開にしてすばやく立て続けキック。 5〜6回のキックののちにウンババババッとかぶり気味の初爆、そのあとすぐ、いつものようにムイーンと軽く吹けあがりました。 ああよかった、エンジンは大丈夫だ。同時にヘッドライト・テールライトとメータ照明も点灯しました。 マシンをとりまわし、来た方向へヘッドライトを向けてよくみると、工事のために道路の片側だけ、 自分が走ってきた左側だけが舗装を削られて低くなっており、 センターラインに沿って (実際には1.5車線なので白線は描かれていませんでしたが) 高さ2cm以上のするどい段差が走っています。 右旋回中にその段差にとても浅い角度で進入したため、 雨に濡れたフロントのユニバーサルタイヤが段差を乗り越えられずにすくわれてしまったのでした。 マシンを再び元の向きに戻し路肩に寄せ、左にウインカーを出しておいて、車体の点検をします。 右への転倒でしたが、レバーホルダのボルトはやや緩めにしておけと教わっていたことが幸いして、 ホルダが回っただけでブレーキレバーは折れていませんでした。 レバーホルダをぐいっと戻して、OK。が、どうやらブレーキペダルは思いっきり曲がっています。どうしよう…。 そのとき後ろから明かりが見えて、1台の車が通り過ぎ、そして止まりました。 20代前半くらいに見える男の人が雨の中を傘もささずに薄着のまま降りてきて、 「おい、どうした、転んだのか?」と声をかけてくれました。「ケガはないか?」 「ええ、膝をひどくすりむいちゃったけど、骨とかは大丈夫です。歩けます。でも、ブレーキペダルが曲がっちゃって…」と答えたら、 彼は車のテールランプで照らされているハスラーのブレーキペダルをのぞき込んで、 「このままじゃ走れないな…ちょっと待ってろ、バールがあるからそれで曲げよう。」と言い、クーペのトランクをあけました。 「待ってください、雨でずぶ濡れになっちゃいます。自分で何とかできますから」 よくみると助手席には女の人が待っているようです。 「いやいや、こんな雨の山の中でバイクで転んだヤツの方がかわいそうだ。さて、よっ!」と彼はバールでブレーキペダルを曲げ戻してくれました。 「これでいいだろ。この先気をつけて行けよ。」 「あ…ありがとうございます! あのう、お名前と、それから、電話番号を教えてください。 今なにも持っていないけど、後でお礼をさせてください」 すると彼は、「おまえみたいな小僧からなにをもらうつもりもないよ。 もし俺に礼がしたいんならな、そう、今度どこかで今のおまえみたいに困ってるヤツがいたら、おまえができることだけでいい、助けてやれ。 1回だけでいいから。じゃあな。」 そういって彼は足早にクーペに乗り込み、走り去ってしまいました。 再びハスラーの明かりだけになった雨の峠道の道端で、もう一度各部を点検し、 すこしだけねじれたフロントフォークを蹴飛ばしてまっすぐにし、 また足をすくわれないように走り出しました。 リヤブレーキも問題なく使えます。 峠を降り、雨のR254を膝の痛みを我慢しながら走り続けます。 そうか、ひょっとしたらあの人も昔オートバイで転んでしまったとき誰かに助けてもらったのかもしれない。 今度は彼が誰かを助けてやる番だった、ってことか。すると次は俺の順番なわけだ。 雨の木曽路でリーク失火してしまった緑タンクのハスラー50、 夜通し走った後居眠りで転倒し足を痛めてしまったCB250Tホーク、 仲間の一人が急に熱を出してしまって深夜の名栗村で動けなくなった50ccの3人組、 柳沢峠で転倒してフロントフォークを曲げフロントタイヤがラジエータに干渉して走れなくなってしまったVT250F、 標識ポールに乗り上げてランプロールオーバーし、横倒しになった赤いスズキアルトのなかで気絶していたお姉さん… あのとき雨の内山峠でバールでハスラーのブレーキペダルを直してくれたお兄さん、本当にありがとう。 一回だけでは恩を返しきれないような気がして…いまでも、あなたとの約束は守っています。 |
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パンク怖いよ〜 | ♪ |
峠越え | ♪ |
ロング ツアー | ♪ |
4900rpmの奇跡 | ♪ |
転んでしまって人に助けてもらったことはあるけれど、私とハスラー50の誇りは、
決して走行不能にはならず、いつも最後は必ず自力で帰ってこれたこと。
そんな中で一番のピンチは、私が大学の入学願書を取りに行ったときに起こりました。
高校の授業が終ってそのまま東京まで3時間かけて走り、志望校の守衛所で願書を手にいれたまでは順調でした。
願書をバッグに納め、エンジンを始動していざローギアにシフトしようとしたとき、
ジーンズの裾がステップホルダに引っかかって足を下ろすことができず、私は見事に立ちゴケしてしまいました。
夕闇迫る12月の志望大学の正門前でコケたことがどんな意味を持つのか、私はほんの一瞬の間に実にさまざまなことを考えました。 心を鎮めてマシンを起こし、再びキックアームを踏む…しかしエンジンはかかりません。 正門前というのもどうかと思い、私はハスラーを押し、車の間隙を縫って片側2車線の幹線道路を渡り、 反対車線の歩道にマシンを止めてトラブルシューティングを開始しました。 燃料はあります。であれば、スパークプラグ電極がガソリンで濡れてしまったのでしょう。 いつもの手順でスパークプラグをはずし、プラグ磨きで電極を磨いて掃除しました。 シリンダヘッドにスリーブを押し付けてキックすると、いつものように火が飛んでいます。 しかしプラグを取り付けてキックしても、やはりエンジンは一向に始動しません。 長い押しがけを試みてやっと初爆を得たものの、ほとんどアクセルに反応しません。 スロットルバルブはアクセルグリップの操作に応じて動いているし、 キャブレターのフロートドレンボルトを緩めてみると、ただしくオーバーフローホースから燃料が漏れます。 ガソリンはキャブまではきちんと来ています。 いったいどうしたというのだろう。とりあえず発進してみましたが、どうあがいても速度は15km/hしか出ません。 すっかり暗くなった街道ぞいのバイク屋に入って、若い店員さんに尋ねてみました。 すると、心細くアイドルするハスラーを見てすぐ彼は言いました。 「マフラーだよ、これは。見てみな、煙が口から立ちのぼってる。普通は煙は真後ろへ勢いよく出るものさ。」 なんてことだ。出発前に、キャブも点火系も駆動系もしっかり点検しましたが、排気管のトラブルだなんて考えたこともありませんでした。 「すぐなおりますか? 群馬まで帰らなくちゃならないんです。」 「マフラーをすっかり交換するしかないね。ここまでつまっていたら、多少焼いたってどうにもなんないよ。 もうこんな時間じゃあパーツも無理だね、ディーラーは閉まってるし。」 私はとぼとぼと、自転車のように走りました。アクセルを開けようが閉じようが、速度は15km/h しか出ません。 小平までですら1時間近くかかりました。 道端にしゃがみこんでひと休みしていると、ロードパルが軽快に通り過ぎて行きます。 たしかにロードパルも、排気煙はマフラーの先から元気よく吹き出ていました。 再びエンジンをかけ、走りだして驚きました。 タコメータが3000rpmを越えて回っていきます。素直に速度がのっていきます。直ったのか? …そう思ったのも束の間、またエンジンはせき込んでしまいました。 所沢で、車にけたたましくホーンを浴びせられました。家まであと何10kmあるのだろう。 サイレンサを外してみたり(なんと、外してもちっともうるさくならないのです!!)、ウエスをテールパイプに突っ込んでカーボンを少しでも取り除こうとしたりしながら何度か休んでいるうちに、 私はハスラーの症状に規則性を見いだしました。 しばらくエンジンを止めておくと、最初はいつものように滑らかに吹き上がります。 しかし一度でもエンジン回転が5000rpmを越えると、たちまちせき込んでしまい、パワーが出なくなります。 でもそうなったら、また5分間ほど休ませてやればいいのです。 これはすばらしい発見でした。5000rpmならトップギアで40km/h出ます。 このことに気づいたのはもう川越をすぎたあたりでした。 街道の交通量も少なくなり、いままでは当然だった40km/hクルージングを、 まるで生まれて初めてオートバイに乗ったかのように楽みました。 おかしなもので、10分以上も調子がいいままなので気を許してアクセルをさらに開けると、 本当に5000rpmぴったりでまたせき込み、15km/hしか出なくなります。 だから私は、今までになくタコメータをにらみつづけました…4900rpmに回転を保つために。 一週間後、新品のエキゾースト・パイプに取り換えて、驚きました。 2倍以上にも感じられる低速トルク、高回転でのシャープなレスポンスとパワー。 いままではいったい何だったのだろう。 毎日ほんの少しずつ失われて行くパワーを、自分の腕が上達したせいだ、50ccなんてこんなものさと思い込んでしまっていたのです。 次の日からまた例の河川敷での練習を始めましたが、まだまだパワーを生かしきれていないことに思い知らされました。 友人の多くは50ccを卒業して大きなマシンに乗り換えていましたが、だれだったか先輩から、 大きなバイクならヘタクソでもそこそこ速く走れる、 本当にうまくなりたいんなら50ccをとことん乗り込んでからでも遅くはないぞ…といわれ、 それじゃ俺はハスラーを目いっぱい乗ってやろう、と決心したのでした。 |
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受験が近づくにつれ、プレッシャーから逃れようと相変わらず毎日のように河川敷を走りました。
結局私は勉強が嫌いだったのです。と同時に、私は生まれつき運動オンチでもありました。
友達があっさりこなしてしまうようなステアケースやジャンプ、あるいはトリッキーなターンをマスターするためには、
人の何倍も練習しなくてはなりませんでした。
それでもまったく望みがなかったわけではなく、オフロードもワインディングロードもゆっくりながらもしだいに上達していきました。 中型二輪免許をとるため通った教習所では、 教官に「君はうまいな、ずいぶん無免許で乗りまわしているんだろう」とさえいわれてしまいました。 「いいえ、Z400LTDにまたがったことがあるだけです。いつもハスラー50で河川敷で遊んでるんです。」 「そうか、どおりで」と教官は、ヤマハGX400で一本橋を止まるような速度で一発で通過してみせた私に、次の教程で8の字旋回を命じました。 「もっと速く」教習車のホンダCB400TホークIIのステップが一瞬軽く接地しました。 「うわあ、ステップこするだなんて初めてだ」と私が叫ぶと、教官は「もっと速く」。 今度は旋回部で連続してステップが接地します。 それでも「もっと速く!」。 素早く切り返してすぐさまフルバンク、ずっとステップをこすりつけながら旋回して素早く切り返す…を延々とやらされました。 これが当たり前に感じられ始めたので、次はがっちりニーグリップしながらも大きくリーンインして、 なるべくステップをこすらないようにしながら速く回ってやろうと試し始めて少ししたら、「よし、ハンコおしてやる。」 後で知ったのですが、白バイ隊員はステップを決して接地させずに素早く旋回する訓練を受けるのだそうですね。 粗末なツールしか持っていませんでしたが、メインテナンスもしだいに手慣れてきました。 明日はいよいよ大学の2次試験。 今夜はどこか大学の近くの旅館にでも泊まろう、早く着けばどこか1軒くらい空いているだろう。 夕方4時くらいまでに着けばいいや、とハスラー50のキックを踏みましたが、あれ、かからない。 イグニションキースイッチポジションOK、燃料残量OK、燃料コック位置OK、スパーク確認OK、圧縮圧正常。 フロートチャンバードレン確認…フロートチャンバーのなかは空っぽでした。 燃料コックをOFFポジションにし、車載工具を取り出し、エアクリーナマニフォールドのバンドを緩め、 キャブレター取り付けボルト2本を緩め、キャブを傾け、フロートチャンバーを取り外し、 フロートバルブを点検しながらフロートをカチャカチャ動かし、すべてを元に戻しました。 燃料コックを開いてスターターレバーを下げ、キックすると簡単に始動。この間無駄なく、15分ほどで修理完了。 スムースに大学近くに着き、1軒目の旅館ですぐに空き部屋が見つかりました。 同級生は2カ月くらい前にホテルの空きが見つからない!!と思いっきり焦っていましたが、そんな大したことじゃないでしょ。 高校生最後の1年、モーターサイクルのメインテナンスとライディングにはそれなりの自信がつきましたが、 試験準備はからきしダメダメ。 本番の試験も全然ダメで、試験が終わって家へ帰る道のりをまったく覚えていません。 たぶん強烈な敗北感に打ちひしがれていたのだろうと思います。 家は非常に貧しかったので私立大学など望むべくもなく、 一校しか受験できない国立大学に落ちても予備校には通えず。 それなら背水の陣で望むべきだったのですが、河川敷でのプレイライドに現をぬかしていた自分が情けありませんでした。 |
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新生活 | ♪ |
希望していた学科はダメでしたが、どうにか入学を許してもらえることになりました。十分です。
親のつてで食事つきアルバイトの住み込み下宿を手配してもらうことができました。
入学祝いに親は新しい布団を買ってくれて、宅配便で下宿に送ってくれました。
さて、それではいよいよ出発。
引っ越し業者を頼むお金もなかったので、毎週末にハスラーで帰り、必要な荷物を少しずつ運べばいいやと軽く考えていました。
リヤキャリヤにはadidasのスポーツバッグ1つだけ。
東京へ向かう途中にホームセンターに立ち寄り、東芝のパタパタ式デジタル目覚まし時計を買いました。 初日のアルバイトの仕事を終えたあと、近くの八百屋ではっさくを1個買いました。今日のデザートはこれ。 ほとんど何もない裸電球1個の下宿に戻り、次にハスラーで交番に行き、近くの銭湯を教えてもらいました。 さっぱりして下宿に戻りはっさくを食べようとしましたが、硬くて指では皮を剥けません。 が、台所用品など何一つなし。 でもオレにはハスラーがある・・・シート下から車載工具を取り出し、 スズキ純正のスクリュードライバで皮に穴をあけて剥くことができ、貧乏大学生の一人暮らし初日の締めくくりをはっさくで楽しみました。 ハスラーさえあれば、この先もなんとかやっていけるさ。たぶん。 入学式が終わってテキストを買うために大学生協をうろついていたら、 「あ、きみバイク乗るの?」と同じ学科の新入生が声をかけてきました。 私が着ていた黄色いトレーナーの、胸のスズキのワッペンを見つけたらしいのです。 ハスラー50は、どうやら私の友達も見つけてくれたようです。 |
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当時は原付バイクの取り締まりは厳しかったし、臆病者ライダーだったので、
最高速チャレンジは数えるほどしかしませんでした。
親友のMR50と夏の川上村を走っていておのずと競争になったときは愉快でした。
ハスラー50もMR50も全開・前傾のまま数分間並走。
両車まったく同じ78km/hで、一向にどちらが前に出るでもありません。二人で笑いながら走っていました。 1984年夏、VAX11/780のシスアドもどきのアルバイトに向かう途中、30m道路でたまたまホンダMB50と並びました。 3本スポークホイールでシャープなシルエットのMB-5のスタイルは好きでしたが、MB50にはなじめませんでした。 RZ50にならともかくも、スズキの2ストロークがホンダの2ストロークに負けるわけには行きません。 たとえ相手が最新型の水冷エンジンでも。 当然のように、信号グランプリ。 エンジン回転を7500rpmに維持して1・2速を長めの半クラッチで引っ張り、 その後は7500〜8500rpmを使ってクラッチを使わずシフトアップ。 一馬身ほどリードしたところで…いつのまにか後ろについていたパトカーに止められてしまいました。 パトカーの中でおまわりさんは 「上手にパワーを引き出していたな。おまえとハスラーの勝ちだ。公式記録として認めてやろう。」 とのありがたいお言葉とともに赤切符を渡してくれました。 おまけをしてもらっての公式記録は時速59km。 それまでの累積と合わせ、見事に停止60日、短縮30日。 計画していた3回目の北海道ツアーを含む夏休みがすべてパアです。 仕方なくアパートの近くの自転車屋さんでブリジストン カマキリ セレックの新車を分割払いで買いました。 以降いままで切符を切られたことがなく、追突にもあっていないのは、 バックミラーに目を配ることの大切さが身に染みたからなのかもしれません。 すでに走行35000kmを超えていた頃に試した、夜の砂利道での最高速チャレンジは今でも不思議です。 下り坂でも追い風でもなく、しかもバラスの砂利道。 舗装路ほどに前傾姿勢をとるわけにも行きません。 ところがスピードメータは振り切り90km/hを示していて、タコメータは9000rpm。 直線区間が終わるまで数分間その状態でした。 ギヤ比を考えると何か変なのですが、ともかくメーター読みでの記録樹立でした。 社外のパワーアップパーツなどは一切使っておらず、すべてが純正部品。 当時の自分ができる限りきちんと整備してあったとはいえ、 オーバーホールもなしに35000kmを超えた50ccのエンジンとは思えない速度でした。 今から考えると少し薄めのジェッティングになっていたのかもしれません。 |
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お別れ | ♪ |
最終的にはハスラーのほとんどのパーツはスペア車あるいはサービスパーツに交換されました。
オリジナル車の部品で最後まで残ったのは、フレーム、ステアリングステム、
エンジンそれにコンビネーションメータくらいのものです。 大学に入って以降、メイン車両は SP370 、TL125S、XT400そして就職してからRH250に変わっても、 たまにはハスラー50で通勤したり、夜の散歩をしたり、 またいすゞファーゴLTディーゼル標準バンに積んで遠くまで出かけ林道ツーリングを楽しみました。 一度も交換せずに3万6000km以上を走ったピストンはやかましい音を立てるようになりましたが、 パワーを絞りだせる腕前になったので、高校生のときよりもずっと速く峠や林道を走れました。 その後なかなか時間が取れなくなってしない、ハスラーは実家でまちぼうけの日々になってしまいました。 ぜひ譲ってほしいという人が現れ、かわいがってもらえるなら今よりも幸せだろうと、最終的にSP370とともに1989年頃にお別れ。 10年間をともにしてくれた相棒のコンビネーションメータとピストンは外してスペア車のものと入れ替え、いまでも私の宝物になっています。 |
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