これい峠
について地図を見て調べているうち、
中ノ沢を基点にして沢沿いから離れ南西に向かい、品塩山の西側を通り、 県境の峠を越えて南相木の大黒沢に抜ける破線道があって、
この峠をこれい峠と解釈している例をいくつか見ました。
しかし、今まで見てきた地図からの判断によって私は、この峠はこれい峠ではないことを確信しています。 この楢原村白井―南相木村大黒沢ルート上の南相木側には「茶屋の平」と呼ばれる地名があるなど、 古来よく使われていた峠道であることは確実なようです。 ので、この峠こそが「蟻ヶ峠」なのだろうと考えました。 しかしさらに地図を眺めると、どうやらそれは違うように思えてきました。 もう一度じっくり地図を眺めてみることにします。 |
蟻ヶ峠は南相木に抜ける峰越ルートであると仮定して、
いままでの観察から得られた蟻ヶ峠の推定位置を書き込んだものが右図。 やはり一番精密に書かれている山中領御林繪圖からの推定が最有力ですが、 ほかの天保期の地図から読み取れる位置もだいたいは符合しています。 おそらくは右図中の丸をつけたあたりだったものと思われます。 蟻ヶ峠は、 にあったものと思われます。 いっぽう、このことは、 楢原村白井―南相木村大黒沢ルート(茶屋ノ平ルート)上の峠は蟻ヶ峠ではない ということを示しています。 これい峠 の考察中に立てた仮説は誤りでした。 |
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上記の蟻ヶ峠の推定場所を近世の地図で見ると、道のようなものは見受けられません。
が、そこを越えて南相木に降りたのだとしたら、おそらくは右図に示す鞍部 --- 既出の図で鞍部Bとしたところ ---
が峠だったのではないでしょうか。
ここを越えて信州側に降りれば、そこは奥三川。
いまでは上野ダムの上部ダムである南相木ダムがある場所です。
わざわざここで書かなくてもとは思いますが、この巨大なエネルギーストレージシステムにおいては、
です。いいですね? 声に出して10回復唱し、間違えないようにしましょう。 しかし、この鞍部のみならずこの一帯はどこも急傾斜ばかりで岩場も多く、群馬側からの峠のアプローチはとても険しいはず。 徒歩で楢原から南相木まで行って帰ってくるのは、日帰りではたぶん無理だったはずです。 さらに、標高は1850mあって冬場は深い雪に閉ざされますから、通行可能だったのは一年の半分といったところだったはずです。 蟻ヶ峠が峰越ルートであった場合の別の疑問として、長い経路を持つのに、途中に通行人が休憩宿泊したり補給を受けたりできそうな集落も地名も現れないこと。 さらに、楢原村と南相木村を結ぶ別のルートとして茶屋の平・会所ルートがあり、 こちらはよく利用されていたみたいだし、ルートも短くて楽だったものと思われます。 もし茶屋の平ルートのほうがほとんどあらゆる面で便利なら、 どうしてわざわざ神流川の最深源流部までさかのぼる必要があるのでしょう? 蟻ヶ峠が南相木ではなくて川上村へのルートだったというのなら納得もできますが、 蟻ヶ峠が楢原村と南相木を結ぶルートだったのならば、 そのルートが生まれる必然性が思いつきません。 |
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あらためて御林繪圖を見ると、蟻ヶ峠は鞍部というよりも峰として描かれていることに気がつきました。
よって、この繪圖での蟻ヶ峠とは鞍部ではなく、1979峰のことを指しているものと思われます。
三国峠から1979峰までの稜線伝いの水平距離は約2.3km。
千百※※間という記述におおむね合致します。 峠とは普通は峰越えの鞍部につけられる地名ですが、 峰が峠と呼ばれることもあります。 ピークを意味するトッケという語が訛化してトウゲと転じてしまったケースが多いようですが、 蟻ヶ峠もそういった例なのでしょうか? すなわちそれは1979峰の山の名前であって、峰越ルートの最高鞍部の名前ではないということなのでしょうか。 そうであれは、蟻ヶ峠を通過するルートが地域交通用として確立定着されていなくても特段奇妙なこととは言えなくなります。 今まで出てきた1979峰は、実は現代の地図では高天原山と示されており、ショナミの頭・神立山・蟻ヶ峰そして蟻ヶ峠の別名を持って呼ばれています。 蟻ヶ峠は1979峰付近だったであろうという、今まで見てきた古地図読解による独自解釈は正解だったといえます。 ということで、この時点での解釈は、 蟻ヶ峠は1979峰につけられた山の名前であり、蟻ヶ峠を越える峰越交通ルートはもとから確立していなかった ところで高天原は、奥多野に伝わる伝説のなかでおそらく最も壮大なスケールのストーリーの舞台。
その昔、高天原で神々の戦いがあった。
神々の血は西に流れて千曲川となり、 武具など荒々しいものは南に流れて荒川となり、 神々の髪とこうべは東に流れて神流川となった。 私が神流川源流域をいまでも神々の領域であると信ずるのは、このストーリーによります。 |
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蟻ヶ峠はスゲノ沢源流域の稜線上にあり、実質的に1979峰につけられた名前であって、
そこを通過する峰越ルートは発達していなかった・・・として、
では、楢原村白井―南相木村大黒沢ルート上の峠は何と呼ばれていたのでしょう?
もう一度書けばこのルート上の南相木村側には茶屋ノ平と呼ばれる場所があり、また峠付近には会場という場所もあったそうで、
実際、現代の山岳地図にはこの峠周辺に会場という地名が記されています。
この峠には広く共通認識となるような固有名が付けられたことはなかったようですが、
ともかく、古くからの通商路だったのは間違いがなさそうです。 でも今まで見てきたどの地図にも、蟻ヶ峠の記載はあっても、蟻ヶ峠とこれい峠の間には峠も道も描かれていません。 蟻ヶ峠は山の名前だったのでそこを通る交易ルートが実質的に存在しなかったにもかかわらず地図には記載されていた、のだとして、 茶屋ノ平ルートは日常的に交易に使われていたのに地図に記載が無いとは、どういうことなのでしょう。 よく歴史はロマンだなどと言われますが、 それならひとり勝手に想像しても罪にはならないでしょう。 たとえばこんなのはどうでしょうか? (+ 明治に入り白井関が廃止されて通行が自由化されると、このルートを使う理由は弱まり、 藤岡・万場方面の道路整備が進むと商用の利用価値は激減し、やがて道は消失した。) 上野村史や多野藤岡史などを見ても、古い交易路として触れられているのは十石峠だけ。 これい峠や蟻ヶ峠について言及した史書はありません。 カマガ沢・仲ノ沢上流に位置するルートについての記述もなし。 単に言及するに値しない小さな交易路だったということかな。 |
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そうだ、信州側から探してみよう。
すると、おお、川上村史に記述がありました。
同書の川上村略図には蟻ヶ峠の位置も記されています。
蟻が峠
[川上村史 民俗編 川上村史刊行会 1986年 第3章 交通・交易 第1節 往還 1 街道と峠 p268] から引用梓山から群馬県上野村を結ぶ、所並(しょなみ)山、字川(あざかわ)山、ゴキゴヤ山の接点の峰で、群馬県との境をなしている。 享保9年 (1724) の「信府統記 (註)」にその名を見ることができる。 また江戸時代の記録には、梓山、秋山両村の百姓稼ぎ山と記されている。 地形的に見ても峠道としての利用度は少なかっただろうが、「杣・木挽き」の出稼ぎの人々の通う峠であった。 註:「信府統記」松本城主・水野忠恒が、家臣・鈴木重武、三井弘篤に命じて、享保9年12月に編述された。 うむ、やはり蟻ヶ峠は峰だった。 でも同書の略図では南相木・川上・上野村が接する1979峰の東側に峠の記号が書き込まれています。 峰のすぐ脇だったんだろうけれど、川上村と上野村の結びつきはあったようだし、 なにより蟻ヶ峠は川上住民により利用されていたようですから、 須田 茂さんの「群馬の峠」での説明文にある「上野村楢原〜長野県南相木村」の記述はちょっと違うのかも。 「上野村楢原〜長野県川上村」とすべきなのではと思えてきました。 ま、いずれにせよここは高血圧運動不足のメタボ中年が気軽に行ける所ではないなあ。 |
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東信史学会報 「千曲」第119号 (2003年) ISSN 0288-6979 の「佐久と甲州・武州・上州への道」 (臼田 都雄 氏) の中に、以下の記述があります。
○南相木から上州への道
あまり通る人はなかったという。昭和32年頃には奥三川(1280m) に森林鉄道があって国境近くまで通じていた。 最終地点から峯までは僅かだった。 (略) 上州側は全くの急峻、日航機の墜落現場はこの国境から上州側へ僅か行った所。 この近くに揚水式発電所が造られつつある。 神流川の水をくみあげて三川側の上部ダムに貯水し、これを上州側に作られた下部ダムにおとすことで発電する。 (略) 近年作られたものの未だ一般開放されていない御巣鷹山トンネルを除けば、現在 南相木から群馬に抜ける道はありません。 徒歩交通の時代に確立していた交易路として伝えられる道すじとして楢原村白井―南相木村大黒沢間の茶ノ平ルートがあったわけですが、 この文章はこの茶ノ平ルートのことに言及しているのでしょうか、それとも蟻ヶ峠ルートのことなのでしょうか? 昔森林軌道があったというのはどちらなんでしょう? 「奥三川(1280m)」という記述がまず謎で、大黒沢や南相木ダム近くでは南相木川の標高はすでに1350m近くあります。 標高1280mならもっと西・下流の、栗生のあたりだな。やはりこれは茶屋ノ平ルートを示しているのだろうか。 でも文中にある上部ダムがあるのも墜落現場も蟻ヶ峠のほうに近いし・・・。 もしこの文章が三川の最奥部と蟻ヶ峠の道について書かれているのであれば、逆に茶屋ノ平に交易路があったことに触れられていないわけです。 茶屋ノ平よりも蟻ヶ峠のほうが人々の記憶に残っているだなんて、そんなこと有り得るの? それとも、あれっ? ひょっとして「奥三川(1280m)」という記述は、川の長さのことを言っているのかな? でも地図に描かれた三川は1500m以上あるしなあ。 詳しく書かれていたりしないかなと期待して千曲第119号を読むためはるばる臼田の図書館まで行ったところが、 逆に疑問が増えてしまいました。 |
あの日のことはよく覚えています。 あの頃は都内の風呂なし・トイレ共同の安アパート暮らしで、 あの日の夜は他に何の予定もなく、XT400で夜のぶどう峠に走りに行くつもりでした。 携帯電話も加入者電話もなかった頃ですので、 夕方友人のアパートにまずは立ち寄り、 「おう、オレこれからぶどう峠走りに行ってくるからさ。」 すると友人は、 「ちょっと待てよ、テレビ見てみろ、どうやらぶどう峠あたりに飛行機が落ちたらしいぞ。」 もし私の出発が数時間早かったなら、あのときあの地域内にいる、強力なヘッドライトと大容量燃料タンクを装備した唯一のオフロードバイクだった可能性があります。 でも友人からそのニュースを聞いた私はぶどう峠行きを取りやめて自分のアパートに戻りました。 まだ墜落地点の特定はできていませんでした。 当時上野村はまだまだ秘境の呼び名が似つかわしい奥地で、新町分駐の藤岡11が鬼石・万場・中里を通って2時間の行程の後に上野村に入っていました。 藤岡11からの電波は御荷鉾に遮られて群馬本部リピータまで十分には届かず、情報収集もなかなか進みません。 御座山付近らしいとかぶどう峠付近らしいとかの情報が錯綜する中、 新町駐屯から急派された自衛隊車両はぶどう峠に向かったものの、拡幅が済んでおらず未舗装の夜間の林道に難儀し、すれ違いが困難、 夜遅くになると山の中で燃料不足になる報道車両も出始め、身動きが取れない状態になりつつありました。 もしXT400とともにそこにいたらすこしはなにかの役に立てたかもしれなかったのに・・・ でも他になすすべくもなく、ただ一人でも多くの乗客の救出を願いつつ、 安アパートの一室で2個イチで見えるようにしたゴミ捨て場テレビとVHF受信機にかぶりついていました。 それまでぶどう・十石は何べんも走っていたけれど、 浜平奥の源流行き止まりまで行ったのは、補助タンクを積んだ ハスラー50 での1回だけでした。 XT400なら燃料の心配も不要、行きたくなったらいつでも行けると思っていたからだったのですが・・・ あの日以来、神流川源流は全く違った意味で、 気軽に行ってはならない場所となったのです。 あれから月日がたち、上野村は大きく変わりました。 すれ違いができない場所も多かった神流川沿いの街道は拡張整備され、塩之沢トンネルが開通し、村内には立派で快適なバイパスが通り、 峠道はすべて舗装。 休日の道の駅はのっぺりしたタイヤを履いたきらびやかなオートバイや車高の低いクルマで賑わいます。 神流川源流への道は最奥部までいくつものトンネルが貫かれて全線舗装となり、深い谷だったところにダム湖が出現し、巨大なタービンが地下深くでうなりをあげ、 最奥部に慰霊塔が建ち、さらに奥へ向かう道路が開かれ、 そして毎年多くの家族が登山道を登る・・・ レジャーのためではなく、愛する人の供養のために。 昔の姿がどうであったか記されたものがいまではほとんど見当たらないスゲノ沢源流とその稜線部は、しかしこの先、 鎮魂を祈る人々によって時おり、しかし永遠に、歩き続けられることでしょう。 |
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