ハスラー50
で走り始めたころの峠越え記録は、学生手帳と昭文社10万分の1道路地図帳に書き込んだ到達マークだけ。
残念なことに現在それらは行方不明になっています。
大学時代はルーズリーフノート数ページでした。
峠越えの記録 (ばかりではなく、カセットテープの一覧とか) をつけるためにパーソナル・コンピュータが欲しいなと思いましたが、
当時はそうそう買える価格ではありませんでした。
そのうちApple][+の中古機が手に入りましたが、漢字は表示できませんでした。
1991年、PC-9801NS20、桐Ver.3を使ってようやくデータベースらしきものがつくれるようになりました。
が、そのころは新生活立ち上げの方が主務で、ソロで峠を歩く時間はなくなり、
それ以来峠越えからはすっかり遠ざかってしまいました。
たまに初めての峠を越えても、ろくに記録も取らず。
そんなわけで、私の峠越えログブックの2000年以前のエントリには不正確なところがずいぶんあります。 古い写真を見ると、1982年の6月か7月に撮った写真に秋畑内久保の保安林案内図が写っています。 前後の写真は御荷鉾スーパー林道の風景で、秋畑地内ではありません。 たぶん別の日の撮影なのでしょう。 このときの車両は SP370 だったはず。 保安林案内図の写真はおそらく炮烙峠をめざした時なのでしょうが、案内図に描かれた車道は峠まではつながっていません。 この案内図あたりの地点で引き返したのかな。 峠越えログを見ると、炮烙峠は「1984年12月02日にXT400で到達、たぶんSP370でも来ている」と記録されているのですが、 そのときの記憶がまったくありません。 仮に当時峠までたどり着いたのだとしても、奈良山側には降りられなかったはずです。 はたして本当に私は、1982年にSP370で、また1984年にXT400で炮烙峠に来ていたのでしょうか? さらによく見ると、この写真にはトンボが写っています。 このショットを含むフィルムには、1982年3月のハスラー50赤タンク化に始まって5月のSP370導入そして8月の初の北海道ツアーの途中までが写っています。 6月あるいは7月に、内久保のあたりにはトンボが飛んでるものでしたっけ? ますます謎が深まります。 |
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いのぶ〜で炮烙峠に行ってみることにしました。
秋畑側の芳の元線から峠に向かう道は簡易舗装の荒れた登り。
普通車でも通行は可能でしょうけれど、激甚土砂災害復旧工事済みの部分などはかなり荒れた未舗装区間もあり、
軽トラ・ジムニーで行くのがよさそうな道です。
いのぶ〜はときおりメインスタンドを接地しながらも快調に進み、やがて峠に到着。
峠にはハイカーさんがつけたと思われる「ほうろく峠」の手作りのちいさな標識。 峠付近は四輪車を停めても道をふさがない程度の道幅はあり、雰囲気は開放的。 峠からの見晴らしは良くはありませんが、新緑がとても美しく、周囲の林の中での森林浴散歩も楽しそうです。 峠には新しい林道奈良山線の案内板がありました。 秋畑側が林道芳の元線、峠から奈良山側が林道奈良山線で、こちらは平成17年開通とのこと。 奈良山側は少なくとも今回が初走行になるというわけです。 峠でお弁当にしようと思ったのですが、初夏のことですから虫がブンブン。 あまりゆっくりしていられません。進んでみよう。 峠から奈良山側にちょっと降りると、途中で西に入る軽トラ・ジムニー級の尾根道が一本あります。ここに入って森の中でお弁当にしよう。 もうすこし見晴らしのいいところまで進んでみたいな。 しかし腐葉土の作業道を上る途中で いのぶ〜が大量の煙を噴きだしたのです。 とてもお弁当を楽しむどころではなく、 炮烙峠道にもどり、すごすごと小峠を越えて帰投。 ひやひやしたけど、炮烙峠通過再調査ミッションは完了です。 2012-05-26 林道芳の元線 - 炮烙峠[再] - 林道奈良山線 - 小峠 |
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炮烙峠の名の由来は次の通り。
甘楽町之地名 甘楽町地名調査会 1999年 p033 秋畑地区 其ノ四(滝ノ沢、北平、内久保、来波)の地名
焙烙峠 (ホウロクトウゲ)
甘楽町史 p1423 九 交通・運搬・交易 (一) 交通路 6
炮烙峠
藤岡市史 第三編 交通・運輸・通信・交易 (二) 峠・坂 1.峠道 p664
焙烙峠 (ほうろくとうげ)
奈良山から甘楽町に通じる峠。ホウロクの形に似ていたので、焙烙峠の名称がつけられた。ここは樹木も茂らないところで地形が、そのまま峠の名になった。 日野街道の奥の奈良山から秋畑の梅の木平へ通じる山の尾根にある(奈良山)。 私はほうろくが身近にはなかった世代なのでピンと来ない、のが正直なところなのですが。 文献を見ると、「炮烙峠」は「焙烙峠」と書かれるケースも散見されます。 明治40年5万図をはじめ地理院地図など公式な地図はすべて「炮烙峠」です。 「焙烙峠」と書かれているのは以下のもの。 これ以外の地図・文書・標識・掲示物はすべて「炮烙峠」と表記されています。 甘楽町史はゴシック体を使っているレイアウトのところに「炮」の字だけわざわざ別のタイプフェイスを持ち込んでいるところをみると、 「炮烙峠」が正しいということに注意を払っているように見えます。 同じことは 林道炮烙線の立札 についても言えます。 このことから、NoobowSystemsでは基本「炮烙峠」と記し、 オリジナルが「焙烙峠」と書かれている文の引用箇所のみ「焙烙峠」と書くことにします。 「炮烙」と「焙烙」は他の用例の場合も混用されているようですからあまり気にすることはないのかも知れません。 「焙烙」には中国語の原義ではものすごい意味であるので、 ひょっとすると初めて文字で書き表そうとしたときにすでに「焙烙」とするべきを「炮烙」としてしまったのかもしれません。 いっぽう最近の文書で「焙烙」が使われるのは、 WindowsIMEの標準辞書には「炮烙」がなく、「焙烙」しか出てこないからなのではないかと思います。 1986年(MS-DOSとマイクロソフトかな漢字変換の時代)以前に「焙烙峠」と表記した文書がはたしてあるかどうか、 興味のあるところです。 |
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炮烙峠を舞台とするむかしばなしに次のものがあります。
ふじおか ふるさとの伝説 関口 正巳 社団法人藤岡青年会議所 20周年実行委員会 昭和61年10月12日 ISBN なし
百足丸の名刀
小柏家には平家代々に伝わる、"百足丸"という名刀がありました。赤い鞘に入った長いりっばな刀で、家宝になっていました。 ある日のこと、小柏八郎右衛門は甘楽郡小幡城に出かけました。帰り道に焙烙峠で一休みして、家に帰りました。 気が付いてみると、休んだ時に大事な百足丸の名刀を腰からはずして、峠の石の上に置き忘れて来ていました。 あわてて山道を引っ返して行くと、向こうから歩いて来る村の人に行き会いました。 「もしもし、焙烙峠の石の上に赤い鞘の刀が置いてなかったかの」と尋ねました。 すると、その人は「いや、峠の石の上に刀などはなかったけれど、三尺(約一m)もある真赤なムカデがいたので、おっかなくて逃げて来ました」と、恐ろしそうに見ぶるいしていいました。 八郎右衛門はもしかしたらと思って、急ぎ足で焙烙峠に登ってみました。 すると、来る時に休んだ石の上にムカデの姿なんかなくて、さっき置き忘れたままの形で、百足丸の名刀が横たわっていました。 ほっとして取り上げて大事に持ち帰りました。 この名刀は持ち主が見ると、赤い鞘の刀だが、他の者が近づくと大きな赤いムカデになって、人に盗られるのを防いでいたといわれます。 いやいや、伝説ですよ、むかしばなしですよ。 きっと子供相手の作り話でしょうし、バリエーションストーリーでしょうし、目をつり上げて突っ込むのは野暮ですよ。 そんな大切な刀を置き忘れたことに気が付かないだなんてまるきりこいつマヌケだなとか、 身に着けていないことに気が付かないほどムカデマルは軽くてちっこい刀だったのか、とかね。 日野小柏の小柏氏が小幡城に行くのに炮烙峠を通った、というのも、疑ってかかったほうがいいのかもしれません。 地理的に小柏から小幡に行くなら炮烙峠は明らかな遠回りですから。 二本岐峠 か、せめて 亀穴峠 経由にするでしょうよ。 口承が伝えられるうちに本来二本岐峠だったものが炮烙峠と誤って伝えられるようになったとかではないのかな。 しかし、いやいや、これは早計すぎるかも。 小柏氏があえて二本岐峠を使わなかったなんらかの理由 があるのかもしれません。 |
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さて、須田 茂さんの「群馬の峠」を読むと、
須田 茂 群馬の峠 5B-(09) p037
焙烙峠 860m 藤岡市上日野の奈良山〜甘楽町秋畑・轟
はて? 炮烙峠は大峠とも、また奈良山峠とも呼ばれる? これは本当かなあ。 炮烙峠が大峠とも呼ばれると書かれた文献はこの「群馬の峠」以外には見当たりません。 このへんで大峠といえば、 日野会場から山中領万場に抜ける塩沢峠 のことだけれども。 いっぽう炮烙峠は奈良山に行く峠なのだから、奈良山峠と呼ばれるのはとても自然に聞こえます。 はて、奈良山峠は炮烙峠の別名なのだろうか? このディスカッションは 奈良山峠ページ で。 |
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