ハスラー50
で山を走り出したころ、一般の道路地図帳ではあまりに詳細が読めなかったので、5万分の1地形図「万場」を買い求めました。
後で知ったのですが、この「万場」五万図には他のどの五万図よりも多くの峠が含まれているらしいのです。
私が走り始めたのは、まさに峠の国だったのです。 「万場」に示されている峠にすべて行きつきたいなあと思いましたが、車道が至っていない峠も多く、 さりとて当時歩いて登ろうとは思わなかったので、 いくつかの峠は「見果てぬ峠」のままでした。 その中でも亀穴峠はちょっと特殊。 徒歩でないと行けない古い峠、という意味ではほかのいくつもの峠と大差ないのですが、この「亀穴峠」という文字を見るたび一瞬、 どう言ったらいいでしょう、なんとも言葉では書き表せない、不思議な心象が広がるのです。 そして亀穴峠は以来35年間、その不思議な心象とともに、私のログブックのなかで「未到達」ステータスのままでした。 歩けば行けるとわかっていて、 だけれども実際にそこに立って実際の峠を目の当りにしたらあの不思議な心象は消えてしまうかもしれないということに対するためらいがあったからなのかもしれません。 亀穴峠は、日野村の人々が甘楽小幡や富岡に出るのに使われていた峠でした。 鮎川沿いの道を通れば峠越えの苦労はありませんが、なにしろ藤岡までは距離があったので、 上日野の人々の生活・経済は峠を介して甘楽富岡方面と強く結びついていました。 藤岡市史につぎの記載があります。
藤岡市史 第3編 交通・運輸・通信・交易 第1章 交通 p644
医者迎え道
深澤 武さんは上州路の甘楽町特集号への寄稿の中で次のように書いておられます。
上州路 1982年06月号 p051 甘楽の峠 深澤 武
亀穴峠
亀穴峠の東330mほどのところに鳥屋峠があり、これは日野の矢掛から鳥屋・天引・新屋を経由して吉井方面に出るのに使われました。 鳥屋峠は新屋峠とも呼ばれます。 峠の名称は目的地地名をつけられることが多く、これからしても鳥屋峠あるいは新屋峠は日野の人のための峠であったといえるでしょう。 いっぽう亀穴峠の地名の由来は不詳です。 このあたり一帯に「亀穴」もしくはそれに類した集落などの地名はありませんし、 亀にまつわる伝説等もなく、 また地名学的にも類を見ません。 「甘楽町地名考」を記した地名研究家の関口 進さんは、
甘楽町地名考 関口 進 2001年12月刊 p185
亀穴峠
と書かれておいでです。 現代の地形図には見られないのですが、明治40年の地形図には、亀穴峠の南西水平直線470mほどのところに窪地が書かれています。 藤岡市史では亀穴峠は「亀穴の尾根にある峠」という表現が使われており、ひょっとしてこの窪地が昔は亀穴と呼ばれていたのではないだろうか? などと一人勝手に想像したり。 名前の由来はとにかくも、亀穴峠に行く道は途中まで 二本岐峠 と共通で、白倉村の平石から白倉川に沿って旧白倉神社まで行きます。 そこで二本岐峠へのルートから分岐して東に向かい、亀穴峠に登っていきます。 亀穴峠は日野の峠なのだと考えれば、日野の矢掛から上っていくのがより正当なのかもしれません。 あるいは、峠そのものを目的とするのならば、鳥屋から鳥屋峠に上がり、そこから亀穴峠に折り返すというのもあります。 ヤブが伸びていない時季ならば腰痛高血圧オヤジにもさほどの無理はないはず。 ところが二本岐峠と水越峠それに小柏峠に関する文献を引き続き読んでいて見つけたのが、 小柏 正弘氏による「小柏氏系譜と戦国武将」 (出版社名なし、ISBNなし)中の一節。
小柏氏系譜と戦国武将 小柏 正弘 氏 著 2011年 p056 天引小柏氏の歴史 より抜粋
矢掛は小柏(村)の少し下流に位置しており、地元の人々は長大な迂回路となる金井・多比良周りのルートは取らず、頻繁に亀穴峠を利用していた。 小柏(村)と平殿・久保とは亀穴峠を挟んで南と北の位置関係にある。 はてこれは大変だ(個人的に、ですが)。 長い間、亀穴峠の道は甘楽の引田・白倉から川沿いに登り、白倉神社(旧白倉神社)から山に入って東に進路を取り登っていくものだけと思っていました。 明治40年の5万図では堂の入から亀穴峠に上がる道は途中で切れているし、そもそもそのルートに言及した書籍はいままで見たことがなく、 堂の入ルートは亀穴峠への道としては使われていなかった、少なくとも主流ではなかった、と考えていたからです。 しかし落ち着いて上掲の文を読み直すと「旧白倉神社の近くを通り」とあります。 堂の入から谷を詰めて亀穴峠に直行したら、 どうみても白倉神社の近くを通っているとは言えません。 どうやら上記引用中で言及されているルートは、堂の入から小さな峠を越えてちょっとだけ西に向かって平石に出て、 そこから山に向かって登り、白倉神社から山に入って (二本岐峠に行かずに) 亀穴峠に行き、 日野矢掛に降りるルートだったのでしょう。 いやまてよ、だとすると「亀穴峠からは尾根筋を通り小柏峠を経由して上日野小柏に降りられる」のためには無駄なピストンコースになってしまうじゃないか。 やはり堂の入から亀穴峠への直路(すぐじ)は、江戸時代に天引小柏氏によって使われていたということなのでしょうか? 天引平殿の小柏氏が日野小柏の小柏氏に用事に行くなら、堂の入から平石に抜けて白倉神社・二本岐峠ルートをとって小柏に降りるほうが合理的だったでしょうし、 日野矢掛の人は小幡に行くなら亀穴峠を、また天引に行くなら鳥屋峠(新屋峠)を使えばよかったはずです。 堂の入-亀穴峠の直路は、もし本当に交通路として使われていた時代があったにしても、不可欠なルートではなかったのだろうと思います。 おそらく明治の早いうちには衰退し、よって明治40年の5万図には掲載されていなかったのでしょう。 亀穴峠は、迅速測圖のカバー範囲からほんの少しだけ外れています。 明治21年に発行された迅速測圖がカバーしていてくれれば、このへんの変遷を知りえたのでしょうけれど。 |
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1月の第1週も終わったのに、今年はまだ山に雪がありません。
よし、亀穴峠に行こう。
ヤブ漕ぎハイクの準備をし、
いのぶ〜
で天引の自動販売機まで行き、ペットボトル2本を買います。
ちょうど自販機の商品補充をしていたお店のおかみさんと少し立ち話をしましたが、
亀穴峠の名はご存じありませんでした。
おそらく4代あるいは5代も代替わりしているでしょうから、
不思議ではありません。
天引小柏氏がどいういう経路で日野に出ていたのかなど、もはや土地の人でも知っている人はいないのでしょう。 旧白倉神社経由で行くにせよ上鳥屋経由で鳥屋峠に上がってから亀穴峠に向かうにせよ、 徒歩区間の距離はそれなりにあります。 それに比べて堂の入の奥の林道は明治40年の5万図で示されている小徑よりも少しばかり奥まで伸びていて、 車道としては亀穴峠にいちばん近い位置まで来ています。 その先は道はなく、おそらくパスファインディングしながらのきつい尾根の登りになることはわかっていましたが、 行くならばそのルートだろうと考えていました。 今回そのルートは、峠にたどり着くためにいちばん近い車道終点から斜面をゴリゴリ登る突き上げルートとしてというよりも、 ひょっとしたら昔天引の小柏氏が使っていたのかもしれないルートを辿ってみようという研究意義が付帯されたことになります。 ここが天引小柏氏の地か…と思いながら久保・平殿を通過して、堂の入へ。 舗装が簡易舗装になり、朝の霜がうっすら凍っている路面に気を配りながら進んで、未舗装区間に。 路面は荒れ気味ですがいのぶ〜が進めなくなるほどのものではなく、 林道終点に到着。 振り返ると、富岡吉井方面の河岸段丘と、その先おそらくは上越国境の雪山までが見渡せます。 オーバーパンツを脱ぎ、トレッキングポールを延ばし、スマートフォンでスムースジャズをかけて登る準備をしていると、 ウィンドスクリーンを装備した小型ビジネススポーツが登ってくるのが見えました。 あ、ドクターだ。 いくら今日堂の入から亀穴に登るよと予告してあったとはいえ、時間指定なんかしてなかったのに、歩き出す5分前に到着するだなんてすごすぎ。 あ、帰宅通勤途上なんですか。 どうです、一緒に登りませんか? うまいパスファインディングを教えてくださいな。 地形図なら予備のハードコピーがここにありますし、飲み物ならペットボトル1本どうぞ。 あ、方位磁針はお持ちなんですね。 方位磁針を持って通勤している人って、あまり多くないような気がします。 |
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