ラボに戻ってログを整理しようとして、
あれ、そういえば「牛帰」なの? それとも「牛返」なの?
「甘楽町之地名」の中でもこの2つの表記が混在しています。
甘楽町1万図には「牛帰」。
「甘楽町之地名」の著者の関口さんは原稿をワープロで書いていたとのことで、
データベース化していなかったのかもしれません。
スプレッドシートなりカード型データベースなりを使えば、表記のゆれにも気がついていたでしょうから。
なんにしてもおそらく「ウシカエリ」は口承によるもので、耕地でもなかったから公文書に記載されることもなかったのでしょう。
これから先は道が険しいので牛馬は引き返すという主旨からすれば、「返」のほうが適切なのかなと思います。
「馬返」という地名は多いですし、富岡には「返車の坂」という準峠もあります。
よって本項では「牛返」と書くことにします。 ひきつづき地図とログに記入しようとして、あれ、変なことに気がつきました。 甘楽町1万図で牛帰山と示されているピークの標高は424.9m、 いっぽう甘楽町之地名によると牛返山の標高は428m。 地図を見ると、標高428.6mの三角点が上鳥屋にあるぞ? それに甘楽町之地名では「牛返りは上鳥屋南の地名」と書かれてるけれど、 今日行ってきた場所は上鳥屋南ではなくて下鳥屋南に属するはずだぞ? もしも甘楽町1万図の牛帰山・牛帰峠の記載位置が誤りであって、 地理院地図で428.6mと示されている四等三角点TR45438275501の場所がほんとうの牛返山だとするならば、 牛返峠はそこから東北東に水平280mのところにある鞍部だということになる!! そのようにおいてみると、甘楽町之地名の記述は当然すっきり解釈できますし、 そしてなによりその鞍部は、明治40年5万図に小徑として記載されている多胡村大判地と鳥屋を結ぶ峠と一致しています。 きっとこっちが牛返峠なのに違いない!! そう考えて読み直してみると、「甘楽町之地名」で「牛帰」の解説に書かれている
最近甘楽町が作製した一万分の一の地図には寒入の東南方の吉井町東谷の山頂に牛帰山、牛帰峠が記入されている。
の部分は、筆者が同意していない様子を表しているようにも読めてきました。 つまり、
牛帰(ウシカエリ)
上鳥屋南地内にある地名。牛帰山下の一帯を言う。 山奥の急傾斜の崖地で、これ以上牛馬が危険な為入れない場所を言う。 ところが、 最近甘楽町が作製した一万分の一の地図には 、どういうわけか 寒入の東南方の吉井町東谷の山頂に牛帰山、牛帰峠が記入されている。 と、関口さんは書きたかったのではなかったのでしょうか? 甘楽町の地図としてこれ以上はないと思われる精密な甘楽町1万分の1図ですが、 二本岐峠の位置が正確ではない ことを私はすでに確信していますし、 二本岐峠よりもさらに記録に残っていない牛返峠の位置が誤っていても不思議ではありません。 今回東谷の林の中を歩いていたときにどうにも答えを見出せなかったとても根本的な疑問が、はたして牛返峠はどのような目的で利用されたのだろうか、 ということ。 鳥屋と東谷をつなぐ峠にどのような利用価値があったのか、ほとんど考えつかなかったのです。 しかし今考えている牛返峠のルートなら、地図をズームアウトしてみると見えてきますが、 日野村の鹿島の人々が小幡に行くときに使えたはずです。 鹿島を発ち、小梨峠の一つ西の峠を越えて大判地に出て、そこから牛返峠で下鳥屋に出て、久保から小幡へ。 もしそうであったならば、このルートには小梨峠や亀穴峠に匹敵するくらいの重要性があったはずです。 ともかくもこうなると実際にそこ・・・大滑山(明神山)540mの稜線を北北東に360m進んだところにある標高395mの鞍部に行ってみるしかありません。 はたしてそこに、山の神さまがいらっしゃるでしょうか? |
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