カラカラ峠を掲載するにあたり須田氏がよりどころにしたのが郡村誌。
上野国郡村誌は明治8年(1875年)に編纂が開始されたもの。
まずはここからスタート。
上野國郡村誌 巻9 上野国甘楽郡秋畑村
地勢 稲含山ノ脈南方カラカラ峠トナリ日野村ノ千駄萱・太郎山等ノ諸山ニ接シ、東北那須山トナリ岩染村・南後箇村ノ界ニ出テ、 藤田越ニ接シ村ノ四境ヲ絶ス、其居民ハ那須山ノ東麓ニ拠リ秋畑川ニ臨テ村接スルモノヲ那須トシ、其東方ニ連ルモノヲ梅木平トス、 枇杷窪峯等ハ其東北ニ連リ赤谷ハ枇杷久保ノ西北ニ連ル、皆渓流山崖ニ縁テ村ヲナス、隣里高低日用運輸ニ便ナシ 山 稲含山 高三百九拾丈、村ノ西方ニアリ、西方杖植山ニ対シ東南千駄萱・御荷鉾山ニ対シテ郡ノ中央ニ兀立ス、 西方栗山村ニ属シ南方日野村ニ属シ北方野上村ニ属ス、登路東麓那須ヨリ上ル長三十町ニシテ稲含前宮ノ祠ニ達ス、 山脈東南堅沼峠・カラカラ峠アリ、東北那須山根藤峠アリ、脈中多ク萱茅ヲ生ス 道路 里道 里道一等、巾九尺、東方轟村ニ入リ西方稲含登路ニ合ス、村ノ中央ヲ過ルコト二里廿五町三拾間、右ニ入ルモノヲ国峰村道トス、 大日峠ヲ踰テ国峰村ニ通ス、長十五町三拾間、字梅木平ヨリ右ニ入ルモノ二条、南後箇村・岩染村・野上村道トス、 城山峠ニ出ルモノハ南後箇村ニ通シ、字赤屋ヲ経入山ヲ過テ右ニ折ルヽモノハ藤田峠ヲ踰シテ岩染村ニ通シ、 入山ヨリ左ニ折ルヽモノハ、根藤峠ヲ踰シテ野上村ニ達ス これを読んでもよくわからないばかりか、堅沼峠ってどこだとかの疑問が連鎖的にでてきます。 いっぽう 那須峠 という地名は出てきません。 那須峠の名はむしろ後世に付けられたものなのかな。 |
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甘楽町は町内の地名を集めて解説を入れた書籍を2冊刊行しています。
甘楽町之地名 甘楽町地名調査会 1999年 p46 秋畑地区
カラカラ 沼地域の通称地名。内久保の南上、郡界の山間部。『カラ・・・涸』で水のない沢、涸沢の意。水系地名
甘楽町地名考 関口 進 2001年 p115
カラカラ 内久保の南上の山間部にこの地名があるという。『カラ・・・涸』で水の流れない沢、つまり、涸沢の意味があるのではないかと思う。 富岡市南後箇涸沢があるが、これも普段は水流がなく、洪水の時に鉄砲水が出る沢である。 [水系地名] 甘楽町地名考 関口 進 2001年 p116 カラカラ 長開地内の小地名。この地域ではかなり山頂に近い処に位置し、沢の上流の地域にあたる。 『カラカラ・・・空、空』の意で普段は殆ど水の流れていない石の多い沢を言うと思われる。[水系地名] この2冊には 「中峠」 や 「奈良山峠」 などの峠は出てきますが、「カラカラ峠」は現れません。 「カラカラ」は峠につけられた名なのではなくて、特定の場所を示しているのかもしれません。 「内久保の南の郡界の山間部」ということから、現甘楽町と現藤岡市上日野の境、 炮烙峠・黒仁田峠・名無村峠のあたりでしょうか。 |
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「内久保の南の郡界」あたりの現代の地図情報を参照してみると、はたして
国土地理院基準点 四等三角点TR45438271101 「カラカラ山」
があります。 この三角点は標高924.9mのピークにあり、炮烙峠と黒仁田峠の間の稜線にあります。 TR45438271101か、こりゃまたカイパーベルト天体みたいな親しみやすい名前を付けられたものだ。 「峠」の名は通常は交通路が山脈を越える鞍部につけられるものですが、 蟻か峠 がそうであるように、峰が峠と呼ばれることがあります。 この場合「峠」が交通路として用いられるとは限りません。 「カラカラ峠」も山あるいは山域につけられた呼び名なのでしょうか。 そうであれば、どうやら現時点でこれが最も権威のある、 日本国政府公認の公式なカラカラ峠の位置のようです。 このピンポイントがカラカラ峠だとすれば、 それは以前に いのぶ〜がベルトケースからもくもくと煙を噴いた地点 と 黒仁田峠 とのほぼ中間。 友人のXTZ125による調査ではこの区間は大崩落でモーターサイクルでは抜けられず、とのこと。 そのうち行ってみなければ。 |
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いったん郡村史に戻ると、事の発端は
甘楽町史 (昭和54年 - 1979年刊) p1375 / 六 信仰 / 十二 千駄萱
一の宮の貫前神社は、十二年毎に(申年)社殿を修繕したので、お仮屋を建てた。そのお仮屋の屋根を葺く萱は、みんな秋畑の人が出した。 そして秋畑の人は、各戸で自分が出すべき萱を刈り、馬につけて、貫前神社まで運んだ。 新しい荷鞍を買ってきれいな馬具を着け、デエロウの鐘を鳴らして、萱をつけた馬の行列が続いた。 この時だけは荷鞍の馬に乗ってもよいことになっていた。 お仮屋の屋根を葺く萱はたくさん必要なので千駄萱と言い、千駄が山まで行って刈って来た。 広い草原の山で萱が一面に生い茂っていたという。 萱が千駄もあるので千駄萱(1310b)と言ったが、子供の頃はセンダカヤマ(千高山)と言っていた。 赤久縄山の東にある。 千駄萱まで行かないで、他の奥山から刈って来て出した人もいた。 今は萱の代りに金を納めているが、那須部落では一駄だけ萱を納めていると言うことである。 貫前神社の鹿占いの神事の鹿も、オミトウの行列に使う雉子も、秋畑から献上したと言う。 とあります。 現代の地図情報を参照すると三等三角点TR35438168901「千駄萱」が山の頂上にあり、 その標高は1310.5mですから、上引用に現れている千駄萱・千駄が山・千高山はここでしょう。 でもちょっと気になるのは、千駄萱は秋畑村地内ではなく、日野村地内であるということ。 上野國郡村誌の「秋畑村」では千駄萱は日野村にあることがはっきり書かれているのですが、 甘楽町史の記述では千駄萱が隣村の山だということを明記していません。 ともかく、それを巻くように御荷鉾スーパー林道が走っている千駄萱は稲含から見ると東南東の方向。 いっぽうでカラカラ山は稲含から見るとはるか東の方向なので、 郡村史の記述は受け入れにくいものがあります。 カラカラ山とは特定のピークをピンポイントで指しているものではなくて、 一連の山脈を指しているのかな。 「太郎山」は、はてどこだろう。 |
甘楽町史を読み進めると、次の記述:
甘楽町史 (昭和54年 - 1979年刊) p447 (四)入会山(秣場)論 秋畑村内での山論
一、渡辺孫三郎知行所甘楽郡秋畑村名主 年寄 組頭 忽百姓奉申上候 秋畑村之儀ハ高弐百四拾八石余御座候処百姓家数三百五十軒程御座候ニ付田畑農業渡世不取儀 山かせぎ第一ニ仕リ渡世送り申し候 秋畑山之儀ハ百姓持分ニ付申上げ候 うなね山、大久保山 から〜〜山此三ケ所ハ古来之御水帳ニ茂相載り百姓持分ニ御座候得共 源山同様ニ秋畑ハ不及申富岡村 瀬下村 宮崎村 一ノ宮村と申す他領迄古来より入相二秣薪取り來り申し候 然ル処七十三年以前 秋畑村 富岡村と及山論候節入相ニ紛無御座候ニ付向後無違乱互ニ入相可申旨双方江御書付… これは宝永8年(1711年)に秋畑村内で起こった山論のときの訴状の一部。 絵図も現存しているそうですが甘楽町史には掲載されておらず。 古来カラカラ山と呼ばれていた山あるいは山域があったのは確かです。 でもこれは山稼ぎの場であって、交通路ではありません。 いままで「カラカラ峠」と示された書物は郡村誌以外にはなく、 ひょっとすると早急な対応が求められた郡村誌の編纂の際に「カラカラ山」を不注意に「カラカラ峠」と書き、 また地理関係もいい加減な記述が行われてしまったのでしょうか。 だとすると、罪作りだぞ郡村誌。 |
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いろいろ調べてはみましたが、やはり郡村誌以外に「カラカラ峠」について記した書物等はみつかっていません。
私の中での解釈も、おおきく二つあり、確信するには材料不足のままです。 解釈1: カラカラ峠とは四等三角点カラカラ山のこと。
関口 進さんの聞き取り調査による書物と、三角点の名を根拠とした仮説です。 解釈2: カラカラ峠は、四等三角点カラカラ山とは別のところ。
こちらは根拠が全くありません。 郡村誌の「稲含山脈東南堅沼峠・カラカラ峠アリ」が示すのは、小峠の西側の山々なのではないかという推測。 もしそうであれば、カラカラ峠はたとえば 大根峠 のあたりを指していたのかもしれません。 はたしてさらに確実にわかる日がくるのだろうか。 |