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横見峠



手を合わせたくて

    横見峠は徒歩交通時代の那須の暮らしについて書かれた文にしばしば現れる、重要な峠でした。 が、その場所は現在の地図には示されていません。 地元の人でも横見峠の名を知る人はごくわずかで、いまやすっかり忘れられた峠になっているようです。

    須田 茂さんの「群馬の峠」では、

須田 茂 群馬の峠 (2005年) 5C-09 p042

横見峠 標高不詳 甘楽町秋畑の那須〜下仁田町
        「甘楽町地名考」によると、 「本峠は那須峠から稜線を西に行った地点にあり、 那須では足の茅(あしのかや)からこの道に合流するルートがある。 昔は下仁田に行くのに大いに利用された」という。 つまり、峠の位置としては那須峠と鳥居峠の間にあり、 峠越えの道筋はさらに三本杉(峠)を経て下仁田に至ったものであろうか。 小字名調書の野上村に横見がある。


    上記引用に出てくる「鳥居峠」は正しくは「茂垣峠」ですが、同書には茂垣峠の名は出てきません。 「群馬の峠」に掲載されている地図での横見峠の位置表示は不明瞭です。 記事には「標高不詳」とありますので、須田さんは出版の時点では横見峠の位置を特定できておられなかったようすです。

    「甘楽町史」を読むと、

甘楽町史 p1423 九 交通・運搬・交易 (一) 交通路 7 その他
        明治時代には那須の人、一部の来波の人は、那須の足の茅の奥の横見を越えて、 現富岡市野上の宮城の奥に出て、三本杉を通り、 蒔田に出て、白山から下仁田に買い物に行った。 下仁田は上信線の終点で物資も豊富であり、市も立った。 富岡へは四里、三時間半から四時間かかったが、 下仁田へは二里半だから二時間くらいで行けたのでこの道を通って下仁田に買い物に行く人も多かった。


    ここでは横見「峠」とは書かれていません。 「横見」は稜線伝いを行く区間のことを示しているのかもしれません。

    「群馬の峠」で須田 茂さんが参照していた「甘楽町之地名」では、

甘楽町之地名 甘楽町地名調査会 1999年 p050 秋畑地区其ノ五(那須)

横見峠(ヨコミトウゲ)
        雲津地域の通称地名。 那須峠 からほぼ稜線沿いに西方に走る道がある。 那須では足の茅からもこの道に合流するコースがある。 この峠は下仁田方面に出る道として、昔は頻繁に利用されていたと言う。 今は殆ど利用する人はいない。 峠の標高は800米。甘楽野は勿論のこと、上毛三山から北関東一帯が眺められる。 『横見』は眺望のよさに由るものであろう。 峠に 『極月の横見の雪のうらめしや、生れて帰れ花の都へ』の歌を刻んだ墓石が建てられている。 弘化四年(一八四七)十二月、 那須竹原の浅香谷五郎さん(当時二十五才)が下仁田へ峠を越えて買い物に行った帰り時、 思わぬ大雪に逢い、ここで遭難死したのを侮やんで建てたと言う。


    横見峠は確かにピンポイントの峠の地名です。 この文から横見峠の位置を知るには、それに先立って 那須峠 の位置が同定されていなければなりません。 幸いに那須峠の位置は甘楽町1万図を参照することにより確定でき、 また同図には横見峠も明確に記載されていました。 ので、横見峠の位置は疑義なく確定。 標高は地図の等高線から追うと815m前後です。

    横見峠の道は明治40年の5万図に聯路としてはっきりと記載されており、 また峠から稲含方面に向かう小経も描かれています。

    「甘楽町之地名」は甘楽町の地名研究家 関口 進さんによるもので、 同氏がお亡くなりになったあとに町によって発刊されたもの。 関口さんのご夫人は後に同書のフルバージョンを「甘楽町地名考」として発刊されています。 それによると

甘楽町地名考 関口 進 著 2001年12月刊 p123

横見峠(ヨコミトウゲ)
        雲津地域の通称地名。那須峠からはほぼ稜線沿いに西方に走る道がある。 那須では足ノ茅からこの道に合流するコースがある。この峠は下仁田方面に出る道として、昔は頻繁に利用されていたと言う。今は殆ど利用する人はいない。 15年前に地元の人の案内で横見峠を訪れたことがある。この峠の展望は実に素靖らしい。甘楽野は勿論のこと上毛三山から北関東が一望できる。 そのようなことから横見峠の地名がついたと言うのが地元の人の話。 この峠には次のような実話が村内に語り継がれている。 この話は幕末の頃那須村に住んでいた谷五郎と言う人に纏わる話である。 秋畑村では昔から紙漉が盛んな所で、紙を漉く工程でカセイソーダを使う。このカセイソーダは甘楽郡下仁田町まで買いに行く。 その時この横見峠を越えて行くのである。 その日は朝から大雪であったが、谷五郎さんは近所の仲間とカセイソーダを買いに那須村を発った。 日暮れの頃には帰宅する予定であったが、その日は予想外の大雪となり、帰りは積雪の為難行を極めた。 なんとか家までは辿りつこうと二人は励ましあって雪をかき分け横見峠まで来たが、谷五郎さんは遂にここで力つきてしまった。 この事件の情報は直ぐに同行した仲間によって村にもたらされた。 村では遭難事件として大騒ぎとなり、村人が直ちに救助に向かった。 降りしきる雪の中を横見峠に着いて見ると、谷五郎さんは既にこと切れていたと言う。
        この話は弘化4年12月、谷五郎さん28歳の若さであった。 当時村内に浅香文太夫と言う学者がいて、この遭難事故を哀しみ仏を手厚く弔って、遭難現場に歌碑を建立した。 その歌碑には次の歌が刻まれている。

    極月の横見の雪のうらめしや生れて帰れ花の都へ

    ※この話は谷五郎さんの子孫で現在同村に在住している浅香とみさんからうかがった。


    その昔この峠の雪で命を落とした方がいらっしゃったとは・・・。 この峠に関しては、鞍部到達だけではなくて、お墓に手を合わせないことにはログブックを「到達」ステートにはできないな。




第1回踏査

    地形図や各種のデジタルマップを見ると足ノ茅から峠の近くまで車道が伸びていますが、 その入り口は前回訪れたときは獣害防止柵で閉鎖されていました。 ので、今回は最初から、明治40年の地形図に描かれている古道を歩いてみようと思っていたのです。 つまり、那須峠から西に延びる稜線をまっすぐ行けば横見峠につけるはず。 稜線ならわかりやすいし、傾斜も緩やかなはずです。 行ってみよう。

    岩染に入る前にコンビニ兼ミニマートで飲み物とチョコレート、おにぎり、そして大福餅を2つ。 このお店の大福はなんだか美味しいんだよね。 ミニトレックツアーの非常食としてもばっちり。 今回はお墓参りのお供えの意味もあります。

    藤田峠から林道二の倉線を経由して那須峠に着き、どこから稜線に上がろうかと見ていて、まてよ、前回入山峠に向かったときに通った道をもう少し進む方が近いかもしれない。 少し進むと、おや、左に分岐して尾根に向かう支線がある。 入ってみよう。

    道は落ち葉と杉の細い枝だらけですが、大崩落や撤退を余儀なくされるような倒木はなく、稜線を進んでいきます。 これはひょっとして。 でも残念、途中から道は稜線を南にそれてしまいました。 まあいいや、まずは進んでみるか。 途中で止まってNV-U37のラスター地形図を見てみると、おお、いつの間にか足の茅から峠に向かう道に合流しているぞ。 作業車両の通行も最近はほとんどないと思われる荒れた細い林道を進むと、 地形図上で道が終わるところで実際に自動車道は終わり。 この先は いのぶ〜 ではとても無理、ここから歩こう。 でもすぐ近くまで来れたぞ。 見上げると、林の中に山のてっぺんと空が見えます。峠はすぐそこ。
    間伐された明るい杉林の中の踏み跡は不明瞭ですが、赤い頭の境界杭がところどころありますし、どのみちどこを歩いても同じようなものですから、 のんびり行きます。 じきに稜線に出ました。稜線ははっきりと踏まれており、北西方向に降りていく道があります。 よし、ここが横見峠に違いない。到達。

    さあて、ここに石碑があるのだろうか。 まずは南西の方向に稜線を少し進み、戻って北西方向に降りる道を少し降りてみて、また稜線に戻って今度は北東方向のピークまで行ってみました。 が、どこにも石碑のようなものはありません。うむう、ここは横見峠ではないのだろうか。 ともあれ、このピークでお昼ご飯。栂峠ほどではないにせよ鹿のフンだらけなので、腰をおろすのは勇気が要ります。 ここからは富岡方面がよく見渡せます。と言いたいところですが、実際には手前の木が邪魔になって、写真に撮るとほとんど見えていません。

    標高848mのピークで大福餅をほおばりながら、Noobow7200B Dell Latitude10 を起動し、句碑について書かれた文献をもう一度読み直してみます。

甘楽野今昔物語(かんらの むかしがたり) 深澤 武 昭和60年 あさお社 ISBNなし p197

甘楽町の峠路 より抜粋
        横見の峠、遭難供養の碑が建つ山路。 ・・・(略)・・・ 梅の木入の部落から表参道をたどれば、稲含山であるが、山陰に北面して、構見の山路がある。 ここからは、甘楽野一帯、西上州の山々を見渡すことができる。 横見の地名、うなずけることである。 那須、来波の人達は、足の茅から、横見をこえ、宮城、三本木、蒔田、白山を経て下仁田にでた。
        この山ごえはきびしい。 横見の山路に、ひっそり、一基の石碑が建っている。 これは下仁田からの帰路、雪に遭難した人の供養碑である。 この路は樹林が続き、日蔭で、ひっそりと孤独である。土地が、軟らかく、眺めがよい。 ここまで来れば、足の茅は、すぐそこであるのに、山開きのころは、季節のくずの花が供えられていたりして、碑面に一首がしるされている。 (極月に、横見の雪の恨らめしや、生れて帰る、花の都ゑ。) 浅香谷五郎の雪死をいたみ、浅香文太がうたうとしてある。 十二月に、正月の買い物をすませて帰路、この横見の雪の恨めしいことである。 上の句は、この世のことであり、下の句は、あの世のことである。 (あ)と(こ)で条件がちがってしまう。 仏は往生という。行きて生まれる。ゆきて、いきるである。 転生輪廻ともいう。これは仏の正見である。 (生れて帰る)とは、己のもといた世界に転生することである。これは詩人の正見である。
        私は、冷めたい雪の中で、こごえ死んだのではないと思う。 雪ごえの山路は、あたたかであった。 蓮華が咲き匂い、蝶が舞い、うとうととまどろむ間に、この世の務を終り、あの世に旅立ったのであろう。 今この路を、下仁田に通う人はいない。


・・・・。

    「甘楽町之地名」では「峠に墓石が建てられている」と書かれているのですが、 「甘楽野今昔物語」には「横見の山路に、ひっそり、一基の石碑が建っている。」 と書かれています。 どうやら石碑は峠にあるわけじゃないみたいだ。 では足の茅から横見に向かう道の途中にあるのだろうか。 足の茅から横見峠までの間だとすると、古道はさっき通ってきた林道とは違うだろうから、見つけられないだろうなあ。

    峠を降りていのぶ〜まで戻り、走り出します。 登って来る途中でさらに西に向かう支線があったのに気づいていたので今度はそちらに入って、道ばたをちょくちょく見ながら降りていきます。 路面も法面もさらに荒れていますが、進行は可能。 そんな道は2万5000分の1ラスター地形図にもそして当然ベクトル地図にもないけれど、道は南東の方角に降りていき、 下の方に民家らしきものが見えてきて、NV-U37はもうすぐ梅ノ木入であることを示しています。 集落の直前の区間は完全に道と視界を塞ぐ藪草でしたが、問題なく突破、稲含橋のたもとに出ることができました。 おお、抜けられた。 でも、石碑はなかったなあ。

    ここまで来たから、ヨメを差し置いて申し訳ないけれど、那須庵で大盛りと天ぷら。 そばを食べながら、団体客が去ってほっと一息ついた店員さんに横見峠の碑について聞いてみました。 その人は富岡出の人だったから峠の名前も聞いたことがないといったけど、 話を聞いたひとりのおかあさんが 「あたしゃここでとれた人だからね、子供のころは横見を歩いて通ったよ。碑は峰に出てそのまままっすぐ行ったところにあるんだよ。 あれはかわいそうな話だね、あたしゃあのあとも父親の車で稲含の道のあの辺を通るたんびに手ェ合わせて拝んでたよ。」
    そうか、この墓碑は甘楽秋畑の昔語りに出てくるけれど、実際は稜線の峠を越えて富岡側に入り、下仁田を目指して稜線の北側を西進する区間にあるみたいだ。 ならばさっきもう少し先に行けばよかったな。 でも今回はNV-U37内蔵バッテリの残容量がなかったし、また今度にしよう。

2014-05-17 横見峠 第1回踏査










第2回踏査 ― 峠西側北向き斜面

    はじめて横見峠を訪れたあと、来週にでも来よう、と考えていてはやくもすでに1年近く経とうとしています。 約半年間、週末ほぼ何もできない憔悴しきった状態になってしまったためなのですが、 3月も後半になってすこし出かける気力が出てきて、 今年はヤブ草が伸びる前に近場の峠をいろいろ歩いてやろうかと思い、 奈良山峠 根藤峠 そして 二本岐峠 と歩いてきて、いよいよ横見峠の調査を再開。

    飲み物とお弁当と豆大福を買い、藤田峠・那須峠を経て横見峠の車道終点まで。 この林道は1年前もほとんど四輪車交通がなかったのですが、途中の崩落箇所はジムニーでも無理なほどの幅になってしまっています。 下草はまだ伸びていないのでその点はよいですが、 尖った石が多くてパンクとブレーキディスクのヒットを心配し、 石と細枝がびしびしアンダーに当たるハード路面であることには変わりがありません。

    さあて、今日はゆっくりと峠の西側を歩き回って見ます。 峠への登りは前回は草を分けていった記憶がありますが、いまはまだ下草が伸びていない分、 かすかながらも道が見て取れます。 もっとも峠までは斜面を登って行く何通りものパスがあるようで、 実際のところ道を外れても大差なく登っていけます。

    峠から西に向かうルートは、あらかじめ明治40年5万図を見て、そこに描かれている聯路に沿うように進むことにします。 峰に近いとはいえ北側斜面ですので捕捉できる衛星の数は限られ、PDOPは低下しているはず。 しかしランダムウォークは最大でも30m以内に収まっているようで、衛星配置が大きく変化しなければほぼピンポイントで測位できている様子。 もちろん基本は地形図と実際の地形を見比べながらです。

    細い北側斜面の道を辺りを見回しながら進むと、植林の標識。 昭和50年に植林されたことが示されています。 でもそれ以外には石碑なんていう目立ったものなんてなく、落ち葉と小枝と倒木と下草と石ころばっかり。 さらに進むと、傾斜がゆるやかなヒラに出て、植林・間伐された森の中、ルートが不明瞭になりました。 北側に見たかすかな道を進みますが、ここはおそらく鹿の道。 そのうち道はふたたび不明瞭になり、斜面を下り降りてすこし開けたところに出て、お弁当にしました。 むう、いくら道が消えたといっても、こっちのルートは古来交通の道であるはずがない。 休憩のあと先ほど降りてきた斜面を再度登る形で進んでいくと、ふたたびかすかな道。 これも鹿の道なのでしょうが、NV-U37はまもなく宮城からの登山道に出ることを示しているので、道に従って進みます。 で、NV-U37の現在位置が登山道に達したとき、獣道は登山道に出ました。

    登山道の登りはそれなりの登りで、この半年気力を吸い取られていた間に体力も更に落ちていて、ヒイコラ。 道端の大きな石ころを見ながら進んでいって、途中「稲含山←→野上登山口」の朽ちた指導標。 さらに進んで、横見峠-稲含山-宮城 の3方向指導標に到達しました。 こちらが横見峠へのメインの道なのでしょう。 途中から道を見失い、古来のメインパスから外れてしまっていたわけです。 古来の道は、今来た方向つまり宮城から登ってきて、指導標が横見峠と示す方向に向かうものと思います。

    先ほどから小雨が降ったりやんだりしていますので、 分岐点の大きな杉の木の下で2回目の休憩。 熊よけカウベルは休憩の間は鳴りませんから、NV-U37のミュージックプレイヤーを起動してスムースジャズを。 いまはまだクマの心配はあまりしなくても良さそうですが、 さっき私に気づいて山の中を軽快に走り去っていく鹿がいましたし、 いきなりの鉢合わせでお互いドッキリしない配慮をしておくのは必要と思います。

    指導標分岐点から横見峠に向かう道は緩やかな下り。 最初のうちはパスは明確ですが、広い植林地に出たら不明瞭になりました。もっともどこを通っても進むことができるのですが。 あ、これはさっき来たところだ。 往路で来た道は今は左手に見えますが、そちらでは石碑は見つかりませんでしたので、右手に向かって高度を上げていく道を選んで登っていきます。 でもこっちはたぶん鹿道、林業管理あるいは境界杭管理のための道なのでしょう。 横見峠に向かうためにいったん標高を上げ、また降りていくのは交通路としては理にかなっていませんから。 案の定、境界杭をのぞけば他に人工物はなく、とうぜん石碑もなし。 残念、けっこうぐるぐる歩いたのに、見つけられなかった。

    下仁田からの帰り道に遭難したということ、北面した斜面にあるということ、「峰に出てまっすぐいったところにある」という那須庵のおばちゃんの言。 この辺だろうと確信を持って挑んだつもりでしたが、石碑は発見できませんでした。 今の段階では、現在の稲含登山道とのインターフェイス2か所から横見峠の間には碑はない、と結論せざるを得ません。

    さてそうすると、石碑が横見峠の下仁田側にあるのなら、登山道分岐からさらに宮城にいく間にあるのか、あるいは稲含赤岩方向にあるのか? これはこのまま、当時那須から下仁田に買い物に出るとしたら宮城に出て三本杉を経由したのか、それとも茂垣・栗山を経由したのか、という疑問と同値です。 次回は赤岩の西250mの稜線上の地点からスタートして東に進み、稲含登山道分岐点を通過して宮城まで、登山道を歩いて見ましょうか。

    別の可能性は秋畑側で、那須峠から横見峠に向かうとき最初は稜線を通りますが、 途中780.7峰の南側を巻く形で稜線から外れた林道があって前回・今回ともこの林道を行きました。 古道である稜線は通っていないのです。 ポイントRG50から横見峠まで780.7峰を通過してずっと稜線を進んでみればひょっとしたら。

    今回は横見峠からいのぶ〜に戻るときに斜面をまっすぐ降りていくパスをとってみました。 部分的に鹿道、あるいは森林維持管理用のかすかな踏み分けがあってそれを使ったり、かまうことなく斜面を下って行ったり。 するとまたまたちぃじがきを発見。 ここは構造からして透水層から滲み出した水を溜めておくような構造であるように思えます。 沢もない峠近くの山奥、水が得られるならば夏場の山仕事には重宝だったことでしょう。 ここのところ雨は降っていないこともあり、水はありませんでした。 それとも何か別の目的で造られたものなのかな?

2015-04-19 第2回踏査


横見峠 西側のヒラ


横見峠 西側の道


横見峠-稲含山-宮城分岐点指導標


横見峠の石垣


横見峠 第2回調査結果


第3回踏査 ― 宮城-稲含登山道

    「石碑は峰にでてまっすぐいったところにあるんだよ」の那須庵のおばちゃんの言からすると、 石碑は峠よりも西側にあることになります。 しかし峠と稲含登山道の間にはみつかりません。 石碑は峠からはかなり離れた、宮城からの登り口にあるのでしょうか。 でもそうなら、「峠に墓石が建てられている」とは書かれないでしょう。

    甘楽野今昔物語の「横見の道にひっそりと」のくだりもまた、宮城からの登り口ではないと思えます。 ところで「横見」はおそらく、山の斜面をほぼ等高線に沿って進む区間で、きれいな景色を見るために横を見ながら進んだことからついた名なのでしょう。 「横見」は峠のスポットではなくて、稜線伝いの道が続く区間を示しているはず。 すると「横見の道」は、登山道と横見峠の間だけではなく、 分岐指導標から稲含に向かって赤岩(977.2mピーク)を通過する区間も該当しそうです。

    これは地域交通の問題でもあります。 手元にある資料では、「那須の人は横見峠を越え、宮城に出て下仁田に買い物に行った」とありますから、 もしそうであれば赤岩ルートは通りません。 浅香谷五郎さんが下仁田で買い物をして帰るときに使ったのは、やはり三本杉-宮城ルートだったのか。 あるいは、下仁田のお店の位置関係から、茂垣峠ルートを使ったということはあるまいか? しかし赤岩の近くにあるのなら、「横見峠に墓石が」とはもはや書かれず、「神の池の近くに墓石がある」とされるでしょう。

    いずれにしろ、横見峠から登山道の間には見つからないのだから、神の池近くから稜線に上がり、 宮城まで探しに行って見る価値はありそうだ。 なかったらなかったでいいじゃないか。 というわけで第3回踏査は稲含登山道。

    手元の地図では、稲含登山道は赤岩のあたりで途切れていて、林道稲含高倉線とのインターフェイス部が書かれていません。 ので、あらかじめ登り口として目星をつけていたあたりまで行き、 道から外れた森の中にいのぶ〜を止め、ここからクロスカントリーで稜線に上がってみました。
    木の枝をつかみながら急斜面を這い上がり、稜線に出て東に向かうと、すごく急な下り。 こんなところで転げ落ちてケガでもすると大変だし、誰も見ていないから、木をつかみながらへっぴり腰で降ります。 すると今度は登山道と思える道になり、やがて稲含-宮城を示す指導標に出ました。 なあんだ、こっちに登り口があったんだ。下には稲含高倉線の舗装1.5車線の道路が見えます。

    赤岩から横見峠分岐に行く道は快適なハイキングコース。 この稜線は甘楽町と富岡市の市町村境なので境界杭が多数打たれています。 歩きなれてきたせいもあるし、下り坂だから、快調に進めます。 が、石碑のようなものはなく、横見峠分岐に到着。 ここから少しの間、前回も歩いた区間を逆方向に進み、さらに宮城への下りを降りていきます。 でも石碑はなし。 沢の水音とともにディーゼルの音が聞こえ始め、風景がぱっと開け、野上の伐採現場に出ました。 あたりは伐採されてから数日と経っていないのではないかと思え、フィトンチッドの香りに包まれています。 きったばかりの切り株に腰を降ろし、グラップル車がウインチを使って切った木を引き上げる作業をしているのを眺めながら、おにぎりのお弁当。 あ、どうやらあの山桜は切らずに残しておくつもりのようだ。 食べ終わって立ち上がると、しまった、切ったばかりの切り株から出ている樹液でズボンのお尻がべたついてる。

    ここで引き返して、こんどは上り坂。 上までバイクで行って登山道を下り、こんどは登って帰るんだから、やっぱりヘンだよなあ、オレのやってることって。

    登山道が稲含高倉線に出るところはロープつきの階段でした。 ここはもちろんオートバイじゃ無理だけど、宮城から上がってくる道はいたるところ微分可能で、スコティッシュ級でした。 ともかく今回は、まあ予期していたけど、発見できず。 実際に歩いて見つからなかったというのは、地図だけ眺めてないはずだというよりもずっと雄弁です。

    舗装林道をちょっと歩いていのぶ〜を入れた森の中へ。 いのぶ〜の手前30mのところで、林の中から一頭の雌鹿がじっとこっちを見てます。 おいおい、いのぶ〜にいたずらしなかっただろうね。 写真を撮り終わると鹿は軽快に森の奥に消えていきました。 ああ、あんなに自由に森の中を走れるだなんて、うらやましい。 低山登山道でヒイコラ言ってしまう身が悲しい。

    神の池で一休みし、秋畑稲含神社を参拝し、 茂垣峠で吉崎に降り、三本杉峠で帰宅。

2015-04-25 第3回踏査 稲含登山道


赤岩 977.2m


宮城 野上 伐採作業現場


宮城-稲含登山道 林道稲含高倉線からの入口 さあ横見峠にどうぞ


いのぶ〜のそばでお留守番してくれていたの?


横見峠 第3回調査結果


第4回踏査 ― 横見峠東稜線

    第3回踏査の後、私の研究を支援してくれている友人がエクストリーム帰宅通勤の途上で横見峠周辺サーベイを行ってくれました。 彼は横見峠鞍部と峠のすぐ北東のピーク、峠西側のヒラ、足ノ萱側、そして峠から東に延びる稜線を途中まで探査したものの、 発見には至らず、とのこと。 峠のすぐ西側はいまでも一番可能性が高そうに思えます。 西側のヒラを踏査した彼のGPSトラックは私のトラックとは重複しておらず、 それでも見つからない、というのは貴重な成果です。

    第4回踏査は僚隊の未踏査区間、すなわち780.7m峰の東西の稜線を探すことにしました。 正確には、ポイントRG50の西南西240mの林道-稜線分岐点から、780.7m峰西北西140mの鞍部まで。 踏査対象区間延長はわずかに320mにしか過ぎません。 ゆとりがあるなら僚隊がすでに踏査してくれた区間も含めて横見峠まで、峠の南東稜線全区間を歩いてみよう。

    実はむかしがたりで深澤 武さんが語った「ここまで来れば、足の茅は、すぐそこであるのに、」が気になっています。 これは本当に峠を越えてあと少しのところだったのに、という地点なのかも。 横見峠の南東稜線区間だというふうに読めなくもないと思われるからです。 さらに那須庵のおばちゃんの「峰に出てそのまままっすぐいったところにある」は、「那須峠に出てそこから峰をまっすぐ行って」という解釈をすれば、 横見峠南東稜線説に合致します。

    いっぽうで深澤さんの文からも碑文からも、谷五郎さんが亡くなられた地はやはり横見の北向き斜面区間であって、 横見峠から那須峠へ降りてくる稜線ではないだろうと思われます。 12月に想定外の急な大雪に見舞われたとすれば低気圧通過によるもので、降雪が一番ひどく気温が低くなるのはやはり横見の北向き斜面区間のはず。 横見峠を越えて南東側に出られればこの地の北東-南西に延びる稜線にさえぎられて風も雪もかなり弱くなり、 おそらく生還できたのではなかったかとも思えるのです。
    本当にここにあったならば、よくここまで捜索範囲を狭められたものだと自画自賛してウェブページを書くでしょうが、 しかし見つかる可能性はやはり高いとは思えません。 そこにもないことを確認しにいく、というのが動機としてはより正確なところ。

    今回はリアルタイム可視光画像処理能力の増強のために隊員を1名雇いました。 ピーク部などでは稜線と巻き道の2手に分かれた探索を行うことができます。 謎の石碑を発見できたら報酬としてかぶら苑の焼肉、が契約条件。

    3週連続で同じ店で飲み物と豆大福2個を買い、藤田峠・林道二ノ倉線・那須峠経由でいのぶ〜はポイントRG50に到着。 RG50から稜線分岐点まではすでにいのぶ〜で3回通過しているわけですが、 ここは荒れた急坂の砂利道区間。 スクーターで走っていたのでは見落としがあるかもしれません。 ので、いのぶ〜をRG50に駐車し、ここからスタート。 ありゃ、なに今回は慌てたんだろう、 スマートフォンをラボに忘れてきてしまった。 熊よけカウベルと軍手が入ったウエストバッグもない。 「大丈夫だポゴ、バックアップ用のガラケーがある。クマよけは、ギャアギャアわめきながら登っていけば大丈夫だろう。」

    明治40年5万図に聯路としてはっきり記載されている尾根道には赤い頭の境界杭が多く打ち込まれており、踏み跡は明瞭。 ピークを巻く部分などは複数のパスがあって踏み跡が薄くなりますが、そこは尾根道、迷うことはなくすぐに本流に戻れます。 スタート地点標高が700m、横見峠は815mですからピーク直登部を除けば斜度はおおむねゆるやか。 人通りはほぼない道なので枝を払い蜘蛛の巣を払いながら、新緑のまぶしさがいちだんと増した春まっさかりの低山ハイキングです。

    「なんか切り株とか岩とかぜんぶ一瞬石碑に見えちゃうけど、やっぱりないよー。」 780.7m峰のピークも含め踏査対象区間はあっけなく終了、成果なし。 「やっぱなかったか。この先はもうドクターが調べてくれているけれど、峠まで行ってお弁当にしよう。」

    今回も豆大福は持って帰り、ママにお土産。 これで横見峠の古来の道は全区間歩いたことになりますが、石碑は見つからずじまいです。 やはり石碑はどこかに移動されて他の古いお地蔵さんたちと一緒に合祀されているのか、 林道開削あるいは伐採・植樹作業のときにそれと気づかれずに失われたのか。 謎の石碑は謎のままになってしまうのでしょうか。

    第2回のときに林道終点西側にちぃじがきが1箇所あるのを見つけましたが、今回通った古来の道から峠への最終アプローチ部には別のちぃじがきが2つもありました。 前回見たものは湧水を溜めておくつくりになっているようだったけど、ここの2つの石垣は何のためなんだろう。 この峠に小屋か何かが建っていた名残なのでしょうか? 作業小屋? 峠を行き交う人のための休憩施設? それとも軍事・警備目的? む、謎はさらに深まっていくのか。

2015-04-29 第4回横見峠踏査


横見峠の東稜線を登り始める


横見峠の東稜線は岩山


崩れかけた稜線のがけっぷちを降りていく


横見峠の東稜線


横見峠 第4回調査結果


第5回踏査 ― 冒険の書

    横見峠につながるひととおりのルートは歩き、石碑は見つからず。 もうなくなっちゃったんだろう、あきらめよう。 横見峠サーベイはいったん終了だ。 第4回踏査を引き上げるときにポイントRG50の東側すぐのところにポゴがなにか気になるものがあったというので、それが目指すものではないことを確認してから、 甘楽町内の別の峠に行こうと思いました。
    ポゴといっしょにいのぶ〜でまたまた藤田峠登り口のお店に行き、 4回連続で同じ飲み物とお弁当を買おうとしたら、お店の人が PPC用紙の裏にエンピツで書いた簡単な地図 を渡してくれました。 「詳しい人に聞いて描いておいてもらったの。またお客さん来てくれるかなと思って。ここみたいよ。」

    「宮城から神の池に行く道の途中で分岐する点・・・横見峠って書いてあるけど実際の横見峠はむしろその先・・・それはどうでもいいとして、 T字分岐点といえば指導標が設置されているあそこしかないなあ。 分岐点から横見峠に向かって600m行った地点? だってそこはこの間歩いたところですよ、このお店で買った豆大福食べて。」
    「でもその人はその道にとても詳しいの。道の脇にあるからすぐわかる、といってたわ。」

    となると・・・すぐわかるということだけれど、第2回踏査のときは見逃していたに違いない。 位置はたかだか200メートルの誤差で経路上に絞り込まれたわけだし、 なにしろ石碑はそこにあるのだ。 これは冒険の書だ。とうとう手に入れた。

「ポゴ、予定変更だ、横見峠の車道終点までいのぶ〜で行って、そこから300mも歩けばいいだけのはずだ。」 「あ、そうそう、豆大福2つ追加でください。今日は横見に行くつもりはなかったんだけど、もしお墓が見つかったらお供えしなくちゃ。 いままでいつも2つ買って、1つは自分で食べて、もうひとつはお供えにするつもりで、だけど見つからないから持ち帰って、ママにお供えしてたんです。」
「そうですか、じゃ今日はお墓参りできるといいですね。」

    ポゴを乗せていますから安全運転で藤田峠の岩染側・・・杉の落ち葉と細枝が多い簡易舗装のきつい登りの細い林道を登っていきます。 途中じいちゃんカブ並みのスピードでとろとろ登るフルフェアリング・パニアケースつきの大型グランドツアラー・・・なんでこんなところにそんなバイクで来るんだろう・・・が先に見え、 あっというまに追いつき、道を譲ってもらって追い越し、藤田峠を越え、林道二ノ倉線を経由し、那須峠を通過して未舗装路に入り、RG50で入山への道から分岐し、 急な登りに入り、780.7峰稜線分岐まで来ました。

「おとうさん、こないだはそこから登っていったんだよね。」
「そうそう。今度は林道から行くけど、この先はかなり荒れているから、しっかりつかまってろ。行くぞ」

    尖った石がかなり多いこの区間は転落に加えてタイヤとブレーキディスクの損傷も心配しなくてはいけませんし、 フロントロアカバーとステップボードとセンタースタンドは石と細枝の絶えざる攻撃を受け、 タンデムのためにフロント荷重が相対的に軽くなっていて、進路を維持するためには積極的な運転操作が必要。 でもポゴはタンデムシートバックレストの両脇のパイプフレームを握ってしっかりがっちり着座していて、 ライダーの上半身はソロと同様にフリーで、いつもどおりにボディアクションを取ることができ、完璧にコントローラブル。 いのぶ〜はぐいぐい登っていきます。 途中染み出した沢水が道を横切っているマッドセクションではスタック直前でしたが、ポゴを降ろすことなく通過。幅1m未満にまで崩落している部分も一気に通過し、 問題なく車道終点に到着。

「おとうさん、この道の難易度は5段階で星いくつ?」
「せいぜい星みっつだな。スクーターでしかもタンデムで来れるんだから。」

    さて、まずは横見峠に登り、ここから西に向かい歩き出します。 第5回踏査の開始。 いちばんはっきりした道を選びながら、のんびりと、あたりを見渡しながら。 しかし石碑らしいものは見つかりません。 さきほどまではいい天気だったのにぱらぱらと雨が降り始めました。 稲含に近いここは、ラボから30分ちょっとの距離なのに天候ははっきり違い、通り雨も多く発生します。 「すぐにみつかる、ってその人は言っていたというのにねー。」 さほどせずに雨はやみました。

    やがて、宮城-横見峠-稲含山の分岐指導標に出ました。 あれえ? なんだかいままでにないコースを通ってここに来ちゃったみたいです。 まあいいや、ここが冒険の書の真のスタートポイント。 ここでしばらく休憩とします。 ポゴはバッテリ交換サービスから戻ってきたNW-F805で音楽を聴きながら、お弁当も食べずに疲れた様子。

    横見峠は秋畑村と額部村の村境であり、稜線越えの鞍部です。 しかし宮城と那須を結ぶルート上の最高地点ではありません。 横見峠の標高は815mであるのに対し、宮城-横見峠-稲含山指導標のあるこの分岐点の標高は860m。 秋畑村那須と下仁田町を結ぶ横見峠ルートの最高地点はこの分岐点なのです。 よって経路としてみたとき、この地点を峠と呼ぶ人が出てきてもさほど変ではないかも。 冒険の書を書いてくれた「この辺を何百回も歩いている」人も その地図の中で分岐点に横見峠と書き込んでいます。
    指導標は「横見峠はあっち」と示しているから、ここが横見峠ではないことは訪れた人はわかるだろうと思うけれど、 販売・公開されている地図には横見峠は記載されていないし、 この先ハイカーさんがここに「横見峠」などと勝手に標識をつけたら、 いずれこちらが横見峠と呼ばれるようになってしまうかも。

    20分ほど休憩してスタート。 今度は分岐点からいちばんあきらかなルートを歩きます。 でもなあ、ここはたしかに前回歩いた。ここも、そこも。この森も、植樹標識も。 ここに焼酎のビンが落ちてて、そっちに古いジュースの空き缶があって。 ひろい植樹帯のなかは踏み跡は不明瞭ですが、植樹帯の左側--北側--にふたたび踏み跡が戻り、はっきりした道となり、 それを進みます。 そうそう、道沿いのあそこにもう一本、植樹の標識があるんだった。 あの標識は前回写真を撮った。 やっばりこの道は前に通っているぞ。 ・・・と道端に目をやると、土に埋もれかけた石があって、その表面になにやら傷のようなものが・・・む? 近づいてみるとその傷は「生テ」と読めました。 こ・・・これだっ!!

    秋畑の歴史の語り部であるはずの石碑・・・墓碑は、一部分を土が覆い、枯れ枝と草がかぶさり、そして倒れていました。 もう数年このままのようです。 夏になればすっかり草に覆われてしまうでしょう。 1mほど離れたところに、御神酒と書かれた白い杯が転がって半分土に埋もれていました。

    このままそっとしておくべきだったのかもしれませんが、 でもやはりきれいにしてあげたい。 覆いかぶさった土を払い、周りの草を除きました。 倒れたままというのもかわいそうだったので立てようかと思いましたが、 基礎のようなものは見当たりません。 基礎があったとしてもこの石は土台の上に置かれていただけで、 土台と石は固定されていなかったようです。 もしかしたらこの墓石は最初から自立してはいなかったのかもしれません。 あるいは植樹作業のときになにかされてしまったか。 土を固めた上に立てられていただけ、というのがいちばんありえそう。 今は無理やり立たせることはせず、このままにしました。
    石の造作をみると、村で墓標として工作してからここに運んだものではなく、 近くにあった手ごろな石をもってきて、ここで文字を刻んだものなのかもしれません。 いやまてよ、このあたりの石はみな尖っているよな。 角が取れて丸みを帯びているこの石はやはり那須の雄川あたりから運び上げてきたものかもしれない。

    墓石の中央には「雪山道悟居士」の戒名、右下に「秋畑村」、 そして左右に分割されて

極月横見恨メ志ヤ
テカイル花都ヱ

さらに左下に「谷五良 事」と刻まれています。

    近くにあった長方形の石はおそらくお供え物を置くために使われていたのでしょう、 それを使い、土汚れをおとした御神酒の杯にほうじ茶を汲み、豆大福を供え、 またポゴが近くから小さな黄色い花を摘んできて添えました。 そして二人で合掌。

    石碑から峠までの道は明確ではあるもののかなり細い道で斜面を横切っていきます。 稜線に出て、なぜ今回行きと帰りでルートが異なったのかポゴは自分で気がつきました。 「そうかおとうさん、ここで上に行く道のほうがずっとはっきりしてるからそっちに行っちゃったんだね。 石に行くには上に登らないで右にいく細いほうの道に行かなきゃいけなかったんだ。」 ポゴの言うとおり、横見峠から石碑に行くなら鞍部すぐ西の分岐で山の北側斜面に入るほうを取る、のがポイントでした。 さらに石は、その道を西行きで歩いているときは見つけにくい位置にありました。 第2回踏査のときはこの道を歩いたのだけれど、その区間は今回とは反対方向に歩いていました。 宮城-稲含山-横見峠分岐点から入っていけば見つかるけれども、横見峠をスタートポイントにして歩くと見つけにくい、ということだったわけです。

    ということで、5回にわたった踏査の結果解答はこちら。

  • 東経138度50分54秒 北緯36度11分02秒 (日本測地系)
  • 標高830m
  • 宮城-稲含山-横見峠分岐点から東へ360m
  • 横見峠鞍部から西へ260m

  •     これで横見峠踏査は完了。 でもここは気もちのいい山。これからもときおり来てみよう。 つぎはお花を持って。 さあ、帰りはお店に立ち寄って見つかりましたとお礼の報告をしよう。 え? なに? 謎の石碑発見の報酬は焼肉よりもお寿司がいい? よし、今日は結局お昼抜きだったしママに供える豆大福もないから、 はやめにみんなで寿司屋にいって祝福だ。

    2015-05-04 第5回踏査 石碑発見

    とうとう発見


    これじゃわかんないよ〜


    石碑は草と土に半分埋もれていた


    土を払い落としてきれいにした


    お供えをして手を合わせる


    それではまた


    石碑の位置




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