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Ushikaeri Toge Pass

牛返峠


言及されていないのはなぜ?

    甘楽町と吉井町の間にある牛返峠は、ほとんど知られていない峠。 地図にもハイキングガイドブック等にも記載はなく、 またそれを紹介したウェブサイトもほぼない状態。 小林 禎仁さん著の平成20年発行の自費出版本、「30年前のふるさと探訪記 吉井町の境界を歩く」でも、 朝日岳の登山記はあるものの、牛返峠についての記述はありません。 牛返峠は、昭和50年代にはすでに地元の人にもほとんど、そうでないなら完全に、忘れられていたようです。

    須田 茂さんの『群馬の峠』(みやま文庫179、ISBN番号なし) も、牛返峠について言及していません。 でもおかしいな、なぜだろう、須田さんは同書の記述に当たって膨大な量の地誌や文献・記録に目を通されていらっしゃるので、 気がつかなかったこともなかったでしょうに。 なにかわけがあったのだろうか。

    「甘楽町之地名」に以下の記述があります。

甘楽町之地名 甘楽町地名調査会 1999年 p072 新屋地区 2 天引の地名

牛帰(ウシカエリ)

上鳥屋南地内にある地名。牛帰山下の一帯を言う。 山奥の急傾斜の崖地で、これ以上牛馬が危険な為入れない場所を言う。 最近甘楽町が作製した一万分の一の地図には寒入の東南方の吉井町東谷の山頂に牛帰山、牛帰峠が記入されている。


甘楽町之地名 甘楽町地名調査会 1999年 p077 新屋地区 2 天引の地名

牛返峠(ウシカエリトウゲ)

牛返山の北下の峠で、吉井町大判地へ上鳥屋からの道と下鳥屋からの道が合流して通っている。峠に山の神の石宮が祀られている。

牛返山(ウシカエリヤマ)

上鳥屋内の牛返り地区の上の山の名。標高四二八米。


    「甘楽町之地名」の記述だけでは確実な位置の特定はしにくいですが、 甘楽町1万分の1地図を見ると、たしかに牛帰山と牛帰峠が記載されています。 とうの昔に廃道になってしまった峠、明確な道は残っていないようですが、 近くの林道で行けるところまで行って林の斜面を這い上がれば、行って行けないところでもなさそうです。


甘楽町1万図による牛帰山と牛帰峠の位置

山の神さまがいらっしゃいません

    牛返峠は新屋村の天引(現 甘楽町)と多胡村(その後吉井町、現高崎市吉井町)を結ぶ峠で、さてアプローチはどちらからにしよう。 地図を見ると吉井町東谷の林道終点から歩くのが地形的にも迷わなさそう。

    最後の畑を通り過ぎると林道は急に心細くなりますが、 しかし朝日岳登山道の標識が出ています。 でも今日の私の目的地は多胡美人とも呼ばれる朝日岳ではなく、それより南の、誰の気も引かなくなった鞍部。 林道を行ける所まで進もうとすると、行く手を阻む大きな岩。 マフラーに傷を入れることもなく隙間を通り抜けることができましたが、 そのわずか先でいのぶ〜ではとても入ろうとは思わない荒れ方になってしまいました。 すこし戻って、崖の上からの落石の可能性を気にかけながらいのぶ〜を停めます。 今日はここからだ。

    道は不明瞭で、おそらくは鹿道。 地形図を参照しながら最初は等高線にほぼ沿う形で進み、 稜線をくるっと回ってから鞍部へ向かって登ります。 気もちのいい風が吹く稜線に出て、 甘楽町1万図が示す場所にたどり着きましたが、 境界杭がある以外はなんの特徴もありません。 あれえ、ここには山の神さまがいらっしゃるのではなかったのかな。

    水分補給して一休み。 ちょっと南側まで行ってみようか。 特徴的な岩のステップを乗り越え、次の鞍部まで進んでみましたが、 やはり石造物等は見当たりません。 ここより南は424.9m峰で、もはや峠越えルートが通る地形ではないから、可能性なし。 今度は引き返して、登ってきた地点を通り過ぎて稜線を北に向かいます。 が、稜線が幕岩の延長線と交わる点まで進んでも、やはり石造物はありませんでした。 ここから北は朝日岳の山体で、 その先の鞍部はもはや新屋村天引の鳥屋ではなくて新屋村天引の入木屋(イリゴヤ)に属する領域です。 牛返峠は幕岩よりも北にあるはずはありません。 山の神さまが稜線からはずれた場所に設置されているとは思いにくいので、 ということは、この20年かとこの間に土砂崩れとか昨年の記録的な大雪とか何かで崩れ落ち、山の神さまはなくなってしまったんだろうか。

    ともかく、甘楽町1万図で牛帰峠と示されている鞍部は北から南まで歩いたのだから、 ピンポイントでの特定はできなかったけど、どこかで到達しているはずです。 目標、達成。

    鞍部北端から東側に降りる道は最初に登ってきた道よりも明確。 こちらのほうが昔よく使われていたパスだったんだろうな。 ところが進んでいくと、どうもいのぶ〜を停めている林道よりも南を、東に向かって進んでいるようです。 DOPが悪化しているのだろうかとも思いましたが、 場所は南向き斜面だし、実際地形図と地形を見比べても、やはり林道よりも一段低いところを進んでいます。 あ、そうか、この道をままいけば東谷の落合に出るんだ。 だからこっちが古来メインの徒歩道なのだろうけど、今回はそれじゃ困る。 もういのぶ〜を停めたところを通り過ぎちゃってるぞ。 仕方なく斜面を這い上がって上の林道に戻りました。 パスはどこかで来たときの道と交差していたのだけど、気づかなかった。 まったくルートファインディングというものは難しいなあ。

    最後の最後で斜面よじのぼりをやって疲れたので、いのぶ〜で走り始めて最初に見つかった自販機で再度飲み物休憩。 ふう、牛返峠にめでたく新規到達。 でもなんとなくすっきりしない気分で、ポゴの待つ第2研究所に向かいました。

2015-05-17 牛帰峠









もしかして地図が間違ってるんじゃ

    ラボに戻ってログを整理しようとして、 あれ、そういえば「牛帰」なの? それとも「牛返」なの? 「甘楽町之地名」の中でもこの2つの表記が混在しています。 甘楽町1万図には「牛帰」。 「甘楽町之地名」の著者の関口さんは原稿をワープロで書いていたとのことで、 データベース化していなかったのかもしれません。 スプレッドシートなりカード型データベースなりを使えば、表記のゆれにも気がついていたでしょうから。 なんにしてもおそらく「ウシカエリ」は口承によるもので、耕地でもなかったから公文書に記載されることもなかったのでしょう。 これから先は道が険しいので牛馬は引き返すという主旨からすれば、「返」のほうが適切なのかなと思います。 「馬返」という地名は多いですし、富岡には「返車の坂」という準峠もあります。 よって本項では「牛返」と書くことにします。

    ひきつづき地図とログに記入しようとして、あれ、変なことに気がつきました。 甘楽町1万図で牛帰山と示されているピークの標高は424.9m、 いっぽう甘楽町之地名によると牛返山の標高は428m。 地図を見ると、標高428.6mの三角点が上鳥屋にあるぞ? それに甘楽町之地名では「牛返りは上鳥屋南の地名」と書かれてるけれど、 今日行ってきた場所は上鳥屋南ではなくて下鳥屋南に属するはずだぞ?

    もしも甘楽町1万図の牛帰山・牛帰峠の記載位置が誤りであって、 地理院地図で428.6mと示されている四等三角点TR45438275501の場所がほんとうの牛返山だとするならば、 牛返峠はそこから東北東に水平280mのところにある鞍部だということになる!! そのようにおいてみると、甘楽町之地名の記述は当然すっきり解釈できますし、 そしてなによりその鞍部は、明治40年5万図に小徑として記載されている多胡村大判地と鳥屋を結ぶ峠と一致しています。 きっとこっちが牛返峠なのに違いない!!

    そう考えて読み直してみると、「甘楽町之地名」で「牛帰」の解説に書かれている

最近甘楽町が作製した一万分の一の地図には寒入の東南方の吉井町東谷の山頂に牛帰山、牛帰峠が記入されている。

の部分は、筆者が同意していない様子を表しているようにも読めてきました。 つまり、

牛帰(ウシカエリ)

上鳥屋南地内にある地名。牛帰山下の一帯を言う。 山奥の急傾斜の崖地で、これ以上牛馬が危険な為入れない場所を言う。 ところが、 最近甘楽町が作製した一万分の一の地図には 、どういうわけか 寒入の東南方の吉井町東谷の山頂に牛帰山、牛帰峠が記入されている。


と、関口さんは書きたかったのではなかったのでしょうか?

    甘楽町の地図としてこれ以上はないと思われる精密な甘楽町1万分の1図ですが、 二本岐峠の位置が正確ではない ことを私はすでに確信していますし、 二本岐峠よりもさらに記録に残っていない牛返峠の位置が誤っていても不思議ではありません。

    今回東谷の林の中を歩いていたときにどうにも答えを見出せなかったとても根本的な疑問が、はたして牛返峠はどのような目的で利用されたのだろうか、 ということ。 鳥屋と東谷をつなぐ峠にどのような利用価値があったのか、ほとんど考えつかなかったのです。 しかし今考えている牛返峠のルートなら、地図をズームアウトしてみると見えてきますが、 日野村の鹿島の人々が小幡に行くときに使えたはずです。 鹿島を発ち、小梨峠の一つ西の峠を越えて大判地に出て、そこから牛返峠で下鳥屋に出て、久保から小幡へ。 もしそうであったならば、このルートには小梨峠や亀穴峠に匹敵するくらいの重要性があったはずです。

    ともかくもこうなると実際にそこ・・・大滑山(明神山)540mの稜線を北北東に360m進んだところにある標高395mの鞍部に行ってみるしかありません。 はたしてそこに、山の神さまがいらっしゃるでしょうか?


鳥屋と大判地をつなぐ峠が見える


今度こそ牛返峠に行く

    今年の5月は雨が少なくいい天気が続いています。 今日はうす曇、暑すぎず、低山ハイキングにはもってこい。 よ、ポゴも行くか? 今日のターゲットは山の神様だ。 天引の自販機でペットボトルを3本買い、鳥屋に向かって天引川に沿って進みます。 うわあ、最近まとまった雨が降っていないんで、みてみろ、天引川がからっからだ、こりゃあ川じゃあなくて単なる溝だな。

    天引生活環境保全林公園の駐車場はトイレも東屋も地元の人によってきれいに清掃されていますが、 それなりにお金をかけて整備されたはずの木道などの設備は使われもせず維持管理もされず荒れ放題。 こりゃ悲しいね。 町議会でも何べんか議事に取り上げられているようですが、 いまのところ再整備するつもりも活用するつもりもないみたい。 観光客誘致を目的とするならば樂山園がいい感じで呼び込んでいるし、織田家がどうしたこうしたと言っておけば大河ドラマファンが都会から来てくれるからね。 ヤブ岩ハイカーを誘ってもペットボトル3本しか買ってくれないんじゃ、ROI絶望的に低いよね。 仕方ないか、いまのところ。

    さて、地理院地図を見ると目標地点直近まで細い林道が延びているようです。 その入口についてみると、林道は細くて、ポゴを乗せていのぶ〜で入っていく気にはなりません。 距離も大したことないので、林道入口にいのぶ〜を停めて、カウベルコロコロで林道を歩き始めます。 と、ありゃ、この林道は簡易舗装されているし、幅も軽トラ級だ。 なのに車両交通は完全にゼロ。 路面を覆い隠す土と草、行く手を阻む生い茂った草木、そしておびただしい数の倒木。 いのぶ〜どころか、チェーンソーとビーバーを用意してこない限りトレールバイクでもこりゃ無理だな。

    道は自動車用なので傾斜は最大でも15%程度、その点では進むのは楽です。 牛返山三角点の北を回りこむ手前あたりから簡易舗装もなくなり、道は一段と細く、かつ樹木の障害はおびただしいものとなってきました。 これはもはや廃道アドベンチャーです。 朝ドーナツ1個しか食べておらずエネルギー切れを訴えたポゴをしばらく休ませて、 また歩き出し、プリントアウトして持ってきた地理院地図での道が甘楽町と吉井町の境界にさしかかるころ、 つまり目的地にほとんど到着したころ、林道は終わりになりました。 正確に言うと今度は進路を反対に向けて、下鳥屋方面に下りていく細い道になっています。 む、やはりここが峠だ。

    しかしここには石碑のようなものはありません。 そりゃそうだ、ここは林道だ、古来本物の峠はすぐそこ、3mほど上がったところが稜線。 さて、どこから登ろうか? お、ここに登り口ができてる。 でもそこはよじ登るという表現が適切で、ちょうどいい具合に露出している木の根っこをつかんで、よいこらしょと登ります。 根っこまであとちょっと手が届かないポゴにスティックを差し出してアシスト・・・ あれっこのスティックはテレスコピック長さ調整タイプ、引っ張ったら抜けたりはしないかな? と心配するまもなくポゴは木の根っこをつかみ、登ってきました。 よし登れたね、と振り返るとそこに、おおおっ、石碑だ!!! NV-U37のラスター地形図にあらかじめ設定しておいた目標地点マーク、それに現在位置シンボルがぴったり重なって、 そして目の前には山の神。 パーフェクトナビゲーションです。 こんどこそ、牛返峠、到達。

    よくあるタイプの賽の神の石祠が5基。 そのうち2基は崩れていました。 いちばん右の祠には文化14年11月9日の日付が読めます。 西暦1817年。 198年前のものか。 5基の祠はどれも形状が僅かに異なるので、 徐々に増えていったものなのでしょうか。 2基は、そのすぐ脇に生えた木が大きく育って、地面に飛び出てきた太い根によって倒されたもののようです。 倒れてからすでに何十年と経過している風情です。

    ここではなにより、文字に赤い色が入れられた「山神」の石碑が迫力。 こんなタイプ、いままでみたことあったっけ? この石碑は表面の平滑度が高く、ずっと後世のものと思われます。 さらに赤い彩色が残っているところを見ると、かなり新しいものなのかもしれません。 ひょっとして保全林整備のときに作られたものだったりして? でも土台を見ると平成に入ってからのものにも見えません。 なによりこの峠は明治後期には交通は途絶えていたであろうから、 それ以降に建てられる必要があるとも思えず。 明治期のものに、近世になって彩色を含むメンテが入ったものなのでは、と思われました。

    祠が5基もあるだなんて、 その昔は交通量があって活気があって、そして重要な地域交通の峠だったのでしょう。 名前も存在もいまや誰も知らず、 誰の気にも止まらなくなった、忘れられた峠。 キリンビールのガラスコップがおいてあったから、 中に溜まっていた土と木の葉っぱを取り除いてきれいにして、さあ山の神さま、冷たいむぎ茶でもどうぞ。 もしお願いできるならば、昔の様子でも話して聞かせてもらえませんでしょうか?

2015-05-23 牛返峠 [初]

もとは軽トラ級の作業林道だったはずなのだが


道は草木と倒木だらけ


山の神さま


2基の石祠は成長した木によって倒れてしまった


天引生活環境保全林公園駐車場で一休み


牛返峠周辺


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