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Karakara Toge Pass

カラカラ峠


カラカラ峠

    地方の、それも住む人も少ない山間部に関しては、当時の民俗に関する情報記録がとても少なく、 高々100年かそこら以前のことですら今となってはほとんどわからなくなっている事柄も多いようです。 歴史民俗研究家にしろトレイルハイカーにしろ担ぎ上げサイクリストにしろモーターサイクルライダーにしろ、 なぜか峠に惹かれた人々はおぼつかない情報をもとに幻の峠を探し求めてまるきり当て外れの山の中をさまよう人々もいるようですし、 峠の同定解釈について異なる説が真剣に議論されていたりします。

    で、群馬県内の峠に関する書籍としてバイブル的な存在である須田 茂氏著の『群馬の峠』(みやま文庫179、ISBN番号なし)に記述があるとなれば、 そこに行ってみようと思う人も出てくるというもの。 しかし同書ですら決してパーフェクトであるはずがなく、刊行後に須田氏自ら新解釈を発表したり、 あるいは不正確なままになっている峠もあります。

    『群馬の峠』に掲載されている西上州の峠の中でミステリアス度トップクラスではないかと思えるのがこのページで取り上げる カラカラ峠。 さあて、これは難しい。 いったいそりゃどこだ? 推定するまでにすら至っていない今、 まずはわかっている情報素材を書き出してみます。さあ同志よ、共に悩もう。

須田 茂 群馬の峠 5B-(14) (2005年)

カラカラ峠

「郡村誌」の秋畑村の「地勢」の項に、 「稲含山ノ脈南方カラカラ峠トナリ日野村ノ千駄萱・太郎山ノ諸山ニ接シ」、 「稲包山」の項に「登路東麓那須ヨリ上ル長三十町ニシテ稲含前宮ノ祠ニ達ス、 山脈東南堅沼峠・カラカラ峠アリ、東北那須山根藤峠アリ」とある。 根藤峠についてはその項を参照されたい。 カラカラ峠の位置は不詳であるが、「稲包山の東南」に位置するということから、 秋畑の南部から藤岡市上日野に至る峠とみなされる。 「甘楽町地名考」によると、カラカラの地名は、秋畑の長開と内久保の二ヶ所にあり、 共に山寄りにあるという。


    この記事中での「稲包山」は同書の誤植だと思われます。



郡村誌

    カラカラ峠を掲載するにあたり須田氏がよりどころにしたのが郡村誌。 上野国郡村誌は明治8年(1875年)に編纂が開始されたもの。 まずはここからスタート。

上野國郡村誌 巻9 上野国甘楽郡秋畑村

地勢
稲含山ノ脈南方カラカラ峠トナリ日野村ノ千駄萱・太郎山等ノ諸山ニ接シ、東北那須山トナリ岩染村・南後箇村ノ界ニ出テ、 藤田越ニ接シ村ノ四境ヲ絶ス、其居民ハ那須山ノ東麓ニ拠リ秋畑川ニ臨テ村接スルモノヲ那須トシ、其東方ニ連ルモノヲ梅木平トス、 枇杷窪峯等ハ其東北ニ連リ赤谷ハ枇杷久保ノ西北ニ連ル、皆渓流山崖ニ縁テ村ヲナス、隣里高低日用運輸ニ便ナシ


稲含山 高三百九拾丈、村ノ西方ニアリ、西方杖植山ニ対シ東南千駄萱・御荷鉾山ニ対シテ郡ノ中央ニ兀立ス、 西方栗山村ニ属シ南方日野村ニ属シ北方野上村ニ属ス、登路東麓那須ヨリ上ル長三十町ニシテ稲含前宮ノ祠ニ達ス、 山脈東南堅沼峠カラカラ峠アリ、東北那須山根藤峠アリ、脈中多ク萱茅ヲ生ス

道路
里道 里道一等、巾九尺、東方轟村ニ入リ西方稲含登路ニ合ス、村ノ中央ヲ過ルコト二里廿五町三拾間、右ニ入ルモノヲ国峰村道トス、 大日峠ヲ踰テ国峰村ニ通ス、長十五町三拾間、字梅木平ヨリ右ニ入ルモノ二条、南後箇村・岩染村・野上村道トス、 城山峠ニ出ルモノハ南後箇村ニ通シ、字赤屋ヲ経入山ヲ過テ右ニ折ルヽモノハ藤田峠ヲ踰シテ岩染村ニ通シ、 入山ヨリ左ニ折ルヽモノハ、根藤峠ヲ踰シテ野上村ニ達ス


    これを読んでもよくわからないばかりか、堅沼峠ってどこだとかの疑問が連鎖的にでてきます。 いっぽう 那須峠 という地名は出てきません。 那須峠の名はむしろ後世に付けられたものなのかな。



甘楽町の地名

    甘楽町は町内の地名を集めて解説を入れた書籍を2冊刊行しています。

甘楽町之地名 甘楽町地名調査会 1999年 p46 秋畑地区

カラカラ
沼地域の通称地名。内久保の南上、郡界の山間部。『カラ・・・涸』で水のない沢、涸沢の意。水系地名


甘楽町地名考 関口 進 2001年 p115

カラカラ
内久保の南上の山間部にこの地名があるという。『カラ・・・涸』で水の流れない沢、つまり、涸沢の意味があるのではないかと思う。 富岡市南後箇涸沢があるが、これも普段は水流がなく、洪水の時に鉄砲水が出る沢である。 [水系地名]

甘楽町地名考 関口 進 2001年 p116

カラカラ
長開地内の小地名。この地域ではかなり山頂に近い処に位置し、沢の上流の地域にあたる。 『カラカラ・・・空、空』の意で普段は殆ど水の流れていない石の多い沢を言うと思われる。[水系地名]

    この2冊には 「中峠」 「奈良山峠」 などの峠は出てきますが、「カラカラ峠」は現れません。 「カラカラ」は峠につけられた名なのではなくて、特定の場所を示しているのかもしれません。 「内久保の南の郡界の山間部」ということから、現甘楽町と現藤岡市上日野の境、 炮烙峠・黒仁田峠・名無村峠のあたりでしょうか。



現代の地図情報

    「内久保の南の郡界」あたりの現代の地図情報を参照してみると、はたして

国土地理院基準点 四等三角点TR45438271101 「カラカラ山」

があります。 この三角点は標高924.9mのピークにあり、炮烙峠と黒仁田峠の間の稜線にあります。 TR45438271101か、こりゃまたカイパーベルト天体みたいな親しみやすい名前を付けられたものだ。

    「峠」の名は通常は交通路が山脈を越える鞍部につけられるものですが、 蟻か峠 がそうであるように、峰が峠と呼ばれることがあります。 この場合「峠」が交通路として用いられるとは限りません。 「カラカラ峠」も山あるいは山域につけられた呼び名なのでしょうか。 そうであれば、どうやら現時点でこれが最も権威のある、 日本国政府公認の公式なカラカラ峠の位置のようです。

    このピンポイントがカラカラ峠だとすれば、 それは以前に いのぶ〜がベルトケースからもくもくと煙を噴いた地点 黒仁田峠 とのほぼ中間。 友人のXTZ125による調査ではこの区間は大崩落でモーターサイクルでは抜けられず、とのこと。 そのうち行ってみなければ。





千駄萱

    いったん郡村史に戻ると、事の発端は
    稲含山ノ脈南方カラカラ峠トナリ日野村ノ千駄萱・太郎山等ノ諸山ニ接シ、
というフレーズ。 稲含山の位置は明らかですので、カラカラ峠はそこから南のほうにあると読めます。 では千駄萱とはいったいどこ? 甘楽町史を読むと、

甘楽町史 (昭和54年 - 1979年刊) p1375 / 六 信仰 / 十二 千駄萱

    一の宮の貫前神社は、十二年毎に(申年)社殿を修繕したので、お仮屋を建てた。そのお仮屋の屋根を葺く萱は、みんな秋畑の人が出した。 そして秋畑の人は、各戸で自分が出すべき萱を刈り、馬につけて、貫前神社まで運んだ。 新しい荷鞍を買ってきれいな馬具を着け、デエロウの鐘を鳴らして、萱をつけた馬の行列が続いた。 この時だけは荷鞍の馬に乗ってもよいことになっていた。 お仮屋の屋根を葺く萱はたくさん必要なので千駄萱と言い、千駄が山まで行って刈って来た。 広い草原の山で萱が一面に生い茂っていたという。 萱が千駄もあるので千駄萱(1310b)と言ったが、子供の頃はセンダカヤマ(千高山)と言っていた。 赤久縄山の東にある。 千駄萱まで行かないで、他の奥山から刈って来て出した人もいた。 今は萱の代りに金を納めているが、那須部落では一駄だけ萱を納めていると言うことである。
    貫前神社の鹿占いの神事の鹿も、オミトウの行列に使う雉子も、秋畑から献上したと言う。

とあります。 現代の地図情報を参照すると三等三角点TR35438168901「千駄萱」が山の頂上にあり、 その標高は1310.5mですから、上引用に現れている千駄萱・千駄が山・千高山はここでしょう。

    でもちょっと気になるのは、千駄萱は秋畑村地内ではなく、日野村地内であるということ。 上野國郡村誌の「秋畑村」では千駄萱は日野村にあることがはっきり書かれているのですが、 甘楽町史の記述では千駄萱が隣村の山だということを明記していません。

    ともかく、それを巻くように御荷鉾スーパー林道が走っている千駄萱は稲含から見ると東南東の方向。 いっぽうでカラカラ山は稲含から見るとはるか東の方向なので、 郡村史の記述は受け入れにくいものがあります。 カラカラ山とは特定のピークをピンポイントで指しているものではなくて、 一連の山脈を指しているのかな。 「太郎山」は、はてどこだろう。


からから山

    甘楽町史を読み進めると、次の記述:

甘楽町史 (昭和54年 - 1979年刊) p447 (四)入会山(秣場)論 秋畑村内での山論

一、渡辺孫三郎知行所甘楽郡秋畑村名主 年寄 組頭 忽百姓奉申上候   秋畑村之儀ハ高弐百四拾八石余御座候処百姓家数三百五十軒程御座候ニ付田畑農業渡世不取儀   山かせぎ第一ニ仕リ渡世送り申し候
秋畑山之儀ハ百姓持分ニ付申上げ候   うなね山、大久保山 から〜〜山此三ケ所ハ古来之御水帳ニ茂相載り百姓持分ニ御座候得共   源山同様ニ秋畑ハ不及申富岡村 瀬下村 宮崎村 一ノ宮村と申す他領迄古来より入相二秣薪取り來り申し候 然ル処七十三年以前 秋畑村 富岡村と及山論候節入相ニ紛無御座候ニ付向後無違乱互ニ入相可申旨双方江御書付…


    これは宝永8年(1711年)に秋畑村内で起こった山論のときの訴状の一部。 絵図も現存しているそうですが甘楽町史には掲載されておらず。

    古来カラカラ山と呼ばれていた山あるいは山域があったのは確かです。 でもこれは山稼ぎの場であって、交通路ではありません。 いままで「カラカラ峠」と示された書物は郡村誌以外にはなく、 ひょっとすると早急な対応が求められた郡村誌の編纂の際に「カラカラ山」を不注意に「カラカラ峠」と書き、 また地理関係もいい加減な記述が行われてしまったのでしょうか。 だとすると、罪作りだぞ郡村誌。


疑問点

  • 「堅沼峠」を記した地図や史料は「郡村誌」以外に存在するのだろうか?
  • 「太郎山」とはどこ?
  • 「郡村誌」では秋畑から日野に抜ける小峠の道に言及されていないのはなぜ?


  • というわけでいまのところ

        いろいろ調べてはみましたが、やはり郡村誌以外に「カラカラ峠」について記した書物等はみつかっていません。 私の中での解釈も、おおきく二つあり、確信するには材料不足のままです。

    解釈1: カラカラ峠とは四等三角点カラカラ山のこと。

    • 四等三角点があるカラカラ山のことを、郡村誌ではなぜかカラカラ峠と記した。
    • カラカラ峠とは呼ばれなかった。
    • カラカラ山は入会山として古くから森林資源が利用されていた。
    • 交通路としては確立していなかった。

    • 関口 進さんの聞き取り調査による書物と、三角点の名を根拠とした仮説です。

    解釈2: カラカラ峠は、四等三角点カラカラ山とは別のところ。
    • 四等三角点カラカラ山とは別の、稲含の南東の山域もまたカラカラ山と呼ばれていた。
    • 稲含南側のカラカラ山のことを、郡村誌ではなぜかカラカラ峠と記した。
    • カラカラ峠とは呼ばれなかった。
    • カラカラ山は入会山として古くから森林資源が利用されていた。
    • 交通路としては確立していなかった。

    • こちらは根拠が全くありません。 郡村誌の「稲含山脈東南堅沼峠・カラカラ峠アリ」が示すのは、小峠の西側の山々なのではないかという推測。 もしそうであれば、カラカラ峠はたとえば 大根峠 のあたりを指していたのかもしれません。

        はたしてさらに確実にわかる日がくるのだろうか。


    カラカラ峠に行く

        カラカラ峠について調べ始めて2年、全く進展なし。 やはり「からから山」を「カラカラ峠」と記したものなのでしょう。 入会山であって交通・交易路ではなかったようだから峠と呼ぶには難がありますが、 「群馬の峠」で峠として掲載されていて、したがって私の峠越えログブックにも記載されてそのステータスは「未到達」のまま、 Super Mapple Digitalを使って書き込んでいる峠越え地図でも未到達マークのまま。 これでは悔しいので、到達ステートにするためにカラカラ山に行くことにしました。 いのぶ〜発煙ポイントをさらに奥に進んで進行不能になった地点から稜線伝いに歩いてもいいし、 黒仁田峠から稜線に上がってもいいでしょう。 水平距離はたかだか400mといったところです。

        昨夜の強い雨が上がった朝、これはヤブ漕ぎするとかなり濡れるだろうと思いきや、お昼に向けて気温がぐんぐん上昇し、 乾いた強い風が吹き出しました。 これならもう森の中も乾いたかも。 いのぶ〜を出し、ペットボトル2本とチョコレートを買い、林道芳の元線を登ります。

        黒仁田峠から稜線を歩こうと思ったのですが、 前回入らなかった林道長開線に入ってみたらカラカラ山の西の稜線を通っており、 カラカラ山直近地点から山頂方向に向けて徒歩道があるのがわかりました。 よし、今回はここをペースパーキングにしよう。

        こんな具合で稜線まで行けたらいいけど、と思う間もなく道は不明瞭になり、 ほとんど獣道が無目的に左右に分かれる様子。 ヤブに覆われて「平成14年度保安林改良事業」の金属製立て看板がいくつかあり、 道はそのときの作業用だったのでしょう。 稜線を目指しているような踏み跡はなく、 結局は見通しのあまりよくないヤブの中の斜面を強引に直登することに。 暑いからTシャツでしたが、トゲのある低木に腕をひっかかれながら進みます。 夏用の、通気性が良くて涼しい長そでトレッキングジャケットを買おう。 さあ、稜線に出た。

        そこはちょっとした鞍部でした。 北東の白岩山917mとカラカラ山の間にあたります。 稜線越えの道は見当たりませんでしたが、 炮烙峠と黒仁田峠の間の鞍部はここだけですから、 もしカラカラ峠が本当に峰越交通路の峠だったのであれば、それはここしかないでしょう。

        ここが峰越交通路だったとして、それはどういう意義だったのでしょう? なにしろすぐ北東800mに焙烙峠があって南西600mには黒仁田峠があるのです。 もしこの峠を越える交通路が本当にあったとしたら、 それは奈良山の人々がやや遠回りになる炮烙峠よりも速く内久保に降りられる直路(すぐじ)として使われていたのでしょう。 杣人たちは入会山であるからから山に普段から入っていたのでしょうから、 仕事のついでに山の反対側に行って買物、というのはあり得たことなのかもしれません。

        カラカラ峠は実在した、ただしごく少数の杣人が仕事のついでに使う程度の裏道・非公式ルートだったので記録に残されることもなく、 また語り継がれることもなかったのだ…のだったとしたら、 それを否定するに足る確証も得られなさそうに思えます。

        さらにもし本当にそうだったとしても、郡村誌が記述している「カラカラ峠」はやはり峠ではなくて山のことを指示した言葉だったに違いありません。 杣人しか使わない峠に言及しておいて炮烙峠に触れないだなんて、やはり変ですから。

        一休みしたのちに、鞍部からカラカラ山を目指して歩き始めます。 稜線の道はある程度踏まれています。 が、たぶん2足歩行者よりも4足歩行者のほうがずっと多いように見えます。 南東側斜面が岩場になり、じきに、4等三角点に到達。 カラカラ山は、何の変哲もない、だれに語られることもない、ヤブの低山でした。 まだ茂りきっていないヤブの間から見渡す山々、傾き始めた日差しに輝く緑、通り抜ける風。 これが西上州。

        いのぶ〜を停めたベースパークに戻るのにまたあのトゲトゲヤブ漕ぎで腕をさらにひっかかれるのは楽しそうではなかったし、 見通しが効かないヤブの中では稜線を目指して登っていくことは容易でも、ピンポイントを目指して降りていくのはかなり困難なはず。 もちろんNV-U37を頼ってそれも可能ですが、 ここは稜線ハイクを楽しんで黒仁田峠に降り、林道経由で戻ることにしました。 経路的には倍以上の移動距離ですが、疲労度は半分以下、危険度は1/8以下でしょう。

        稜線は間伐されていて傾斜はゆるやか、ヤブに覆われていない黒仁田峠から長開林道の分岐点を経由しての林道ハイクは、 なにか先ほどよりもいっそう緑が濃くなったようにも感じられる、初夏さえ感じるすてきな時間でした。



    長開林道をペースパーキングとして、南東にむかう徒歩道を登り始める



    カラカラ山の北東すぐの鞍部



    四等三角点カラカラ山 これでカラカラ峠到達ということに



    カラカラ山から黒仁田峠に降りる



    黒仁田峠道の新緑



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