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Arika Toge Pass

蟻ヶ峠


これい峠と蟻ヶ峠

    これい峠 について地図を見て調べているうち、 中ノ沢を基点にして沢沿いから離れ南西に向かい、品塩山の西側を通り、 県境の峠を越えて南相木の大黒沢に抜ける破線道があって、 この峠をこれい峠と解釈している例をいくつか見ました。 しかし、今まで見てきた地図からの判断によって私は、この峠はこれい峠ではないことを確信しています。

    この楢原村白井―南相木村大黒沢ルート上の南相木側には「茶屋の平」と呼ばれる地名があるなど、 古来よく使われていた峠道であることは確実なようです。 ので、この峠こそが「蟻ヶ峠」なのだろうと考えました。

    しかしさらに地図を眺めると、どうやらそれは違うように思えてきました。 もう一度じっくり地図を眺めてみることにします。


礒峠?

    ところで「蟻ヶ峠」の表記ですが、上野國輿地全圖と富士見十三州輿地全圖でははっきりと「礒峠」と書かれています。 "礒" は音読みなら「ギ」、訓読みでは「いそ」「いわお」とのことですから、「いそとうげ」あるいは「いわおとうげ」なのだろうか。 いっぽうで須田 茂さんの「群馬の峠」では "蟻か峠" と記されています。 はて、字が違うなあ。

    天保國絵圖 上野國を見ると、「ヶ」が入っているのは確か。 でも、「礒」の字体が不明瞭です。 はたして土へんなのか、石へんなのか、それとも虫へんなのか。 そこで、この地図からいくつか文字を抜き出して比べてみました。

    この地図の中に「礒村」があり、その字と比べると「礒ヶ峠」でないのは明らか。 石へんではありません。 となれば、以降の上野國輿地全圖と富士見十三州輿地全圖での「礒峠」は転記ミスということか。 石へんでないとすれば、形が似ているのは土へん。 しかし土へんに義という文字はないようなので、土へんではないでしょう。 それに他の土へんをもつ字と比べると、横線部分の筆跡がわずかですが違っています。 これはやはり虫へん? この地図のなかに虫へんを持つ字はほとんどなく、かろうじて「南蛇井」の「蛇」と比べてみます。 ううむ、ずばり虫へんだとは言いがたいなあ。 でも、違うとも言い切れません。

    よってここでは天保國絵圖 上野國の記載は「蟻ヶ峠」であり、「ありがとうげ」あるいは「ありかとうげ」と読むのだとしておきましょう。 上野國輿地全圖作成時に天保國繪圖からの転記ミスがあり (この地図では「ヨレイ峠」の転記ミスもありますし)、 富士見十三州輿地全圖は誤った「礒峠」を上野國輿地全圖からそのまま転載したのだ、と結論します。

    すでに見てきたように「拾石峠」を「捨石峠」としたりするミスもあります。 地図作成者の何気ない小さなミスが伝承され、その後の地図ユーザーの間に広まり、 いつのまにか定着してしまって正式な名称になってしまうということはたぶん他にもいろいろあるのでしょうね。

[追記 2015-03-08]

    「ありか峠」とひらがなで示された文献を見つけました。 この峠の読みは「ありかとうげ」で確定。


神流川源流ってどこだ

    その昔、上野国と武蔵国の国境についての争議がありました。 西上州と秩父の境は昔から「峰分け」つまり山脈の稜線をもって国境としていたのに、 どこぞのお役人が「神流川を国境とすべし」と言い出して騒ぎが始まりました。 地方を知らない、あるいは現場を知らないマネジメントの無責任な言動に現場が翻弄されてしまうというのは今でも変わらないようですが・・・ ともかく、川の両岸に家があって協力し合って成り立っている集落を二分しようというのですから、 これはさすがに従うわけには行きません。 結局はお役人も納得し、いまでいう下久保ダムとその下流では神流川による川分け、それより上流では峰分けとして決着がつき、 現在に至っています。

    「上野村史 歴史編」にもこの争議のことが書かれていて、その中に

蟻ヶ峠は神流川の源流である

と書かれています。 蟻ヶ峠が人々の生活の中にあったころ、 それは明確に源流の峠として意識されていたのです。

    群馬縣多野郡誌に訴状が掲載されており、それには、

元禄十五年六月 御檢使瀧野十右衛門高室平十郎へ差上たる書状

    上州甘樂郡山中領古來より上山郷中山郷下山郷三ケ郷にて親村貳拾貳ケ村他に枝郷五拾ケ所御座候・・・

一、 神流川水上三國峠より落申やと御尋被遊候三國峠よりは落不申候壹里餘西の方蟻か峠の澤神流川水上にて御座候尤三國峠と蟻か峠との間にぶたの澤と申小澤御座候へ共蟻か峠の澤より各別水落細り神流川の水上にては無御座候蟻か峠の澤神流川の水上に紛無御座候

群馬縣多野郡誌 昭和2年12月27日発行 群馬縣多野郡教育會 1994年8月15日 再版発行 (株) 千秋社 ISBN-4-88477-178-8 から引用

    この文においては、読者は蟻ヶ峠がどこだかはすでにわかっていて、そここそが神流川の源流である、と述べています。 いまはその蟻ヶ峠がどこであるのかを知りたいわけですから、逆に神流側の源流がどこなのかを知る必要があります。

    さあ、そもそも神流川源流とはいったいどこでしょう。 天保期の地図も明治初期の地図も、神流川上流の表現はとても不正確です。 ので、まずは現在の地図をもとにして、 神流川上流の水系概念図を描き、 現在での呼び名も入れてみました (図中の上野ダムは近年作られたものですので、 昔はありませんでした)。

    神流川上流は三岐で大きく二つに分かれます。 ひとつは神流川の名前をもつ東側であり、浜平の集落の奥に広がる水系で、いまでは上野ダムができています。 浜平水系の最深部は、長戸沢という名で呼ばれています。 もうひとつは中ノ沢集落の奥に広がる西の水系で、最深部は仲ノ沢本谷と呼ばれています。

    現在一般には、神流川との呼び名が使われる東側の浜平水系が神流川の源流であると解釈されています。 「蟻ヶ峠は神流川源流の峠」を現代流に解釈するのなら、 それは長戸沢の奥にありそうです。 しかし長戸沢の上流はさらに三国山に向かって遡上する流れ(長門沢上流)と、 西に遡上する流れ(スゲノ沢)があります。 どっちのことをいうんだろう。

    前述引用した元禄15年の訴状では「三国峠を源とする沢は神流川の源流ではない」と書かれているわけですから、 やはり神流川の源流はいまでいうスゲノ沢だ、ということになります。



上州甘樂郡山中領四ヶ所御林繪圖

    「上野村史 上野村の歴史」の冒頭カラーの最初のページにある上州甘樂郡山中領四ヶ所御林繪圖に蟻ヶ峠が描かれています。 この地図は上野村内の複数個所の御巣鷹山の配置、集落、沢そして道が非常に詳細に掲載されています。 当時の上野村には数箇所の御巣鷹山が設定されており、将軍の鷹狩りに使う鷹を保護繁殖させていました。 鷹は人の気配を極端に嫌うので入山規制も厳しく、御巣鷹山、特に鷹の営巣地は厳格に管理されていたのです。 この精密な地図はその管理の必要から作成されたものでした。 作成年代は不明ですが、江戸時代であったのは間違いがありません。

    この地図の蟻ヶ峠の場所に矢印を入れて示したものが右図。 文字の向きの関係から180度回転し、南を上にして表してあります。

    これを見ると、沢の名称は現在のものと違うところも目につきますが、 「葡萄沢」「大蛇倉沢」は現在と同じです。 ので、蟻ヶ峠があるのは東の浜平水系の源流域に間違いありません。 つぎに、蟻ヶ峠がある沢は、大蛇倉沢よりも奥にある沢で、かつ西に遡上する流れですから、 いまでいう長戸沢。 さらに長戸沢の最深部を西に分岐して遡上する流れ、 いまでいうスゲノ沢の源頭部に蟻ヶ峠が描かれています。



    御林繪圖には、国境稜線の峰々と、それらの間の距離も書かれています。 三国峠と蟻ヶ峠の間には、 解像度不足で読みにくいのですが、 「此処ヨリ峯通蟻ヶ峠迄千百※※間」 とあります。

    1里 = 36町 = 2160間 ≒ 3.927km ですから、 1150間だとすると、三国山と蟻ヶ峠の間の距離は約2.1kmと示されているということになります。 そこで、神流川上流図に、三国山からの稜線伝いの水平距離を書きこんでみました。右参照。 三国山から稜線伝いに約2kmの地点は、たしかにスゲノ沢の源流域です。

    このあたりで峠越えに使えそうな地形上明確な鞍部は2箇所あり、鞍部A・鞍部Bとしました。 おそらく科学的な器具は用いられず、歩数かなにかで測った距離でしょうから、 その精度はたいして期待できないだろうとは思います。 が・・・ 三国山に近い鞍部Aは千百間というには近すぎ、さりとて次の鞍部Bは遠すぎます。 千百間という距離を信ずるならば、1979峰のすこし東側になりそうです。

    1979峰は、南相木と川上村の境界稜線上にあります。 この峰の東側稜線を越えて南に下れば川上村、この峰の北西側稜線を越えて西に下れば南相木に出ます。 あれ? 蟻ヶ峠ってそもそも南相木への道なんだっけ? それとも川上村への道? それによって、1979峰の東を越えるべきなのか、北西を越えればいいのかが決まります。 そういえば、蟻ヶ峠を通って楢原村とどこかの村との間で地域間交易あるいは交通が行われていたという記載は、どこかの文献にあっただろうか? もしかしたら、蟻ヶ峠は実用上の交通には使われていなかったのではあるまいか?



蟻ヶ峠はこのへんなのでは

    蟻ヶ峠は南相木に抜ける峰越ルートであると仮定して、 いままでの観察から得られた蟻ヶ峠の推定位置を書き込んだものが右図。

    やはり一番精密に書かれている山中領御林繪圖からの推定が最有力ですが、 ほかの天保期の地図から読み取れる位置もだいたいは符合しています。 おそらくは右図中の丸をつけたあたりだったものと思われます。 蟻ヶ峠は、

  • 三国山よりも西の国境稜線上、1979峰付近
  • 浜平の奥に広がる神流川の上流、スゲノ沢源流域

  • にあったものと思われます。

        いっぽう、このことは、

    楢原村白井―南相木村大黒沢ルート(茶屋ノ平ルート)上の峠は蟻ヶ峠ではない

    ということを示しています。 これい峠 の考察中に立てた仮説は誤りでした。



        上記の蟻ヶ峠の推定場所を近世の地図で見ると、道のようなものは見受けられません。 が、そこを越えて南相木に降りたのだとしたら、おそらくは右図に示す鞍部 --- 既出の図で鞍部Bとしたところ --- が峠だったのではないでしょうか。 ここを越えて信州側に降りれば、そこは奥三川。 いまでは上野ダムの上部ダムである南相木ダムがある場所です。

    わざわざここで書かなくてもとは思いますが、この巨大なエネルギーストレージシステムにおいては、

  • 上野ダムは下のダム。
  • 上のダムは相木ダム。
  • 相木ダムは上のダム。なのに地図では下にある。

  • 上野ダムは下のダム。
  • 上のダムは相木ダム。
  • 下のダムは上野ダム。だから地図では上にある。

  • です。いいですね? 声に出して10回復唱し、間違えないようにしましょう。


        しかし、この鞍部のみならずこの一帯はどこも急傾斜ばかりで岩場も多く、群馬側からの峠のアプローチはとても険しいはず。 徒歩で楢原から南相木まで行って帰ってくるのは、日帰りではたぶん無理だったはずです。 さらに、標高は1850mあって冬場は深い雪に閉ざされますから、通行可能だったのは一年の半分といったところだったはずです。

        蟻ヶ峠が峰越ルートであった場合の別の疑問として、長い経路を持つのに、途中に通行人が休憩宿泊したり補給を受けたりできそうな集落も地名も現れないこと。 さらに、楢原村と南相木村を結ぶ別のルートとして茶屋の平・会所ルートがあり、 こちらはよく利用されていたみたいだし、ルートも短くて楽だったものと思われます。 もし茶屋の平ルートのほうがほとんどあらゆる面で便利なら、 どうしてわざわざ神流川の最深源流部までさかのぼる必要があるのでしょう? 蟻ヶ峠が南相木ではなくて川上村へのルートだったというのなら納得もできますが、 蟻ヶ峠が楢原村と南相木を結ぶルートだったのならば、 そのルートが生まれる必然性が思いつきません。




    蟻ヶ峠は峠ではなかったのでは

        あらためて御林繪圖を見ると、蟻ヶ峠は鞍部というよりも峰として描かれていることに気がつきました。 よって、この繪圖での蟻ヶ峠とは鞍部ではなく、1979峰のことを指しているものと思われます。 三国峠から1979峰までの稜線伝いの水平距離は約2.3km。 千百※※間という記述におおむね合致します。

        峠とは普通は峰越えの鞍部につけられる地名ですが、 峰が峠と呼ばれることもあります。 ピークを意味するトッケという語が訛化してトウゲと転じてしまったケースが多いようですが、 蟻ヶ峠もそういった例なのでしょうか? すなわちそれは1979峰の山の名前であって、峰越ルートの最高鞍部の名前ではないということなのでしょうか。 そうであれは、蟻ヶ峠を通過するルートが地域交通用として確立定着されていなくても特段奇妙なこととは言えなくなります。

        今まで出てきた1979峰は、実は現代の地図では高天原山と示されており、ショナミの頭・神立山・蟻ヶ峰そして蟻ヶ峠の別名を持って呼ばれています。 蟻ヶ峠は1979峰付近だったであろうという、今まで見てきた古地図読解による独自解釈は正解だったといえます。

        ということで、この時点での解釈は、

    蟻ヶ峠は1979峰につけられた山の名前であり、蟻ヶ峠を越える峰越交通ルートはもとから確立していなかった

        ところで高天原は、奥多野に伝わる伝説のなかでおそらく最も壮大なスケールのストーリーの舞台。

    その昔、高天原で神々の戦いがあった。
    神々の血は西に流れて千曲川となり、
    武具など荒々しいものは南に流れて荒川となり、
    神々の髪とこうべは東に流れて神流川となった。

    私が神流川源流域をいまでも神々の領域であると信ずるのは、このストーリーによります。



    じゃあこっちは何だったの

        蟻ヶ峠はスゲノ沢源流域の稜線上にあり、実質的に1979峰につけられた名前であって、 そこを通過する峰越ルートは発達していなかった・・・として、 では、楢原村白井―南相木村大黒沢ルート上の峠は何と呼ばれていたのでしょう? もう一度書けばこのルート上の南相木村側には茶屋ノ平と呼ばれる場所があり、また峠付近には会場という場所もあったそうで、 実際、現代の山岳地図にはこの峠周辺に会場という地名が記されています。 この峠には広く共通認識となるような固有名が付けられたことはなかったようですが、 ともかく、古くからの通商路だったのは間違いがなさそうです。

        でも今まで見てきたどの地図にも、蟻ヶ峠の記載はあっても、蟻ヶ峠とこれい峠の間には峠も道も描かれていません。 蟻ヶ峠は山の名前だったのでそこを通る交易ルートが実質的に存在しなかったにもかかわらず地図には記載されていた、のだとして、 茶屋ノ平ルートは日常的に交易に使われていたのに地図に記載が無いとは、どういうことなのでしょう。

        よく歴史はロマンだなどと言われますが、 それならひとり勝手に想像しても罪にはならないでしょう。 たとえばこんなのはどうでしょうか?

  • 茶屋ノ平ルートの楢原村側は白井関を通らずに行けたので、非合法商流にさかんに利用された。 非合法ルートゆえ地図作成者は地図に示すことはできなかった。
    (+ 明治に入り白井関が廃止されて通行が自由化されると、このルートを使う理由は弱まり、 藤岡・万場方面の道路整備が進むと商用の利用価値は激減し、やがて道は消失した。)
  • あるいは、そのルートは利用者の間だけの秘密とされていた。
  • あるいは、どういう理由かこのルートは地図作成者の知るところとはならなかった。
  • あるいは、ただ単に、当時の地図に記すほどのトラフィックはなかった。

  •     上野村史や多野藤岡史などを見ても、古い交易路として触れられているのは十石峠だけ。 これい峠や蟻ヶ峠について言及した史書はありません。 カマガ沢・仲ノ沢上流に位置するルートについての記述もなし。 単に言及するに値しない小さな交易路だったということかな。



    いにしえを求めて

        そうだ、信州側から探してみよう。 すると、おお、川上村史に記述がありました。 同書の川上村略図には蟻ヶ峠の位置も記されています。

    蟻が峠

        梓山から群馬県上野村を結ぶ、所並(しょなみ)山、字川(あざかわ)山、ゴキゴヤ山の接点の峰で、群馬県との境をなしている。 享保9年 (1724) の「信府統記 (註)」にその名を見ることができる。 また江戸時代の記録には、梓山、秋山両村の百姓稼ぎ山と記されている。
        地形的に見ても峠道としての利用度は少なかっただろうが、「杣・木挽き」の出稼ぎの人々の通う峠であった。

    註:「信府統記」松本城主・水野忠恒が、家臣・鈴木重武、三井弘篤に命じて、享保9年12月に編述された。
    [川上村史 民俗編 川上村史刊行会 1986年 第3章 交通・交易 第1節 往還 1 街道と峠 p268] から引用

        うむ、やはり蟻ヶ峠は峰だった。 でも同書の略図では南相木・川上・上野村が接する1979峰の東側に峠の記号が書き込まれています。 峰のすぐ脇だったんだろうけれど、川上村と上野村の結びつきはあったようだし、 なにより蟻ヶ峠は川上住民により利用されていたようですから、 須田 茂さんの「群馬の峠」での説明文にある「上野村楢原〜長野県南相木村」の記述はちょっと違うのかも。 「上野村楢原〜長野県川上村」とすべきなのではと思えてきました。

        ま、いずれにせよここは高血圧運動不足のメタボ中年が気軽に行ける所ではないなあ。




    南相木から上州への道

        東信史学会報 「千曲」第119号 (2003年) ISSN 0288-6979 の「佐久と甲州・武州・上州への道」 (臼田 都雄 氏) の中に、以下の記述があります。

    ○南相木から上州への道

        あまり通る人はなかったという。昭和32年頃には奥三川(1280m) に森林鉄道があって国境近くまで通じていた。 最終地点から峯までは僅かだった。 (略) 上州側は全くの急峻、日航機の墜落現場はこの国境から上州側へ僅か行った所。 この近くに揚水式発電所が造られつつある。 神流川の水をくみあげて三川側の上部ダムに貯水し、これを上州側に作られた下部ダムにおとすことで発電する。 (略)


        近年作られたものの未だ一般開放されていない御巣鷹山トンネルを除けば、現在 南相木から群馬に抜ける道はありません。 徒歩交通の時代に確立していた交易路として伝えられる道すじとして楢原村白井―南相木村大黒沢間の茶ノ平ルートがあったわけですが、 この文章はこの茶ノ平ルートのことに言及しているのでしょうか、それとも蟻ヶ峠ルートのことなのでしょうか? 昔森林軌道があったというのはどちらなんでしょう?

        「奥三川(1280m)」という記述がまず謎で、大黒沢や南相木ダム近くでは南相木川の標高はすでに1350m近くあります。 標高1280mならもっと西・下流の、栗生のあたりだな。やはりこれは茶屋ノ平ルートを示しているのだろうか。 でも文中にある上部ダムがあるのも墜落現場も蟻ヶ峠のほうに近いし・・・。
        もしこの文章が三川の最奥部と蟻ヶ峠の道について書かれているのであれば、逆に茶屋ノ平に交易路があったことに触れられていないわけです。 茶屋ノ平よりも蟻ヶ峠のほうが人々の記憶に残っているだなんて、そんなこと有り得るの?

        それとも、あれっ? ひょっとして「奥三川(1280m)」という記述は、川の長さのことを言っているのかな? でも地図に描かれた三川は1500m以上あるしなあ。 詳しく書かれていたりしないかなと期待して千曲第119号を読むためはるばる臼田の図書館まで行ったところが、 逆に疑問が増えてしまいました。



    あの日のこと

        あの日のことはよく覚えています。

        あの頃は都内の風呂なし・トイレ共同の安アパート暮らしで、 あの日の夜は他に何の予定もなく、XT400で夜のぶどう峠に走りに行くつもりでした。 携帯電話も加入者電話もなかった頃ですので、 夕方友人のアパートにまずは立ち寄り、 「おう、オレこれからぶどう峠走りに行ってくるからさ。」 すると友人は、 「ちょっと待てよ、テレビ見てみろ、どうやらぶどう峠あたりに飛行機が落ちたらしいぞ。」

        もし私の出発が数時間早かったなら、あのときあの地域内にいる、強力なヘッドライトと大容量燃料タンクを装備した唯一のオフロードバイクだった可能性があります。 でも友人からそのニュースを聞いた私はぶどう峠行きを取りやめて自分のアパートに戻りました。

        まだ墜落地点の特定はできていませんでした。 当時上野村はまだまだ秘境の呼び名が似つかわしい奥地で、新町分駐の藤岡11が鬼石・万場・中里を通って2時間の行程の後に上野村に入っていました。 藤岡11からの電波は御荷鉾に遮られて群馬本部リピータまで十分には届かず、情報収集もなかなか進みません。 御座山付近らしいとかぶどう峠付近らしいとかの情報が錯綜する中、 新町駐屯から急派された自衛隊車両はぶどう峠に向かったものの、拡幅が済んでおらず未舗装の夜間の林道に難儀し、すれ違いが困難、 夜遅くになると山の中で燃料不足になる報道車両も出始め、身動きが取れない状態になりつつありました。 もしXT400とともにそこにいたらすこしはなにかの役に立てたかもしれなかったのに・・・ でも他になすすべくもなく、ただ一人でも多くの乗客の救出を願いつつ、 安アパートの一室で2個イチで見えるようにしたゴミ捨て場テレビとVHF受信機にかぶりついていました。

        それまでぶどう・十石は何べんも走っていたけれど、 浜平奥の源流行き止まりまで行ったのは、補助タンクを積んだ ハスラー50 での1回だけでした。 XT400なら燃料の心配も不要、行きたくなったらいつでも行けると思っていたからだったのですが・・・ あの日以来、神流川源流は全く違った意味で、 気軽に行ってはならない場所となったのです。

        あれから月日がたち、上野村は大きく変わりました。 すれ違いができない場所も多かった神流川沿いの街道は拡張整備され、塩之沢トンネルが開通し、村内には立派で快適なバイパスが通り、 峠道はすべて舗装。 休日の道の駅はのっぺりしたタイヤを履いたきらびやかなオートバイや車高の低いクルマで賑わいます。 神流川源流への道は最奥部までいくつものトンネルが貫かれて全線舗装となり、深い谷だったところにダム湖が出現し、巨大なタービンが地下深くでうなりをあげ、 最奥部に慰霊塔が建ち、さらに奥へ向かう道路が開かれ、 そして毎年多くの家族が登山道を登る・・・ レジャーのためではなく、愛する人の供養のために。

        昔の姿がどうであったか記されたものがいまではほとんど見当たらないスゲノ沢源流とその稜線部は、しかしこの先、 鎮魂を祈る人々によって時おり、しかし永遠に、歩き続けられることでしょう。



       

    ひとまず。


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